たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

若冲を見るごとに

ネット友達のkyouさんのBLOG(極彩色の悦楽 〜 若冲 - 徒然日記)によれば、三の丸尚蔵館第40回展「花鳥−愛でる心、彩る技 <若冲を中心に>」という展覧会が開催されているのだそうだ。さっそく閲覧されてきたkyouさんの感想。

・・・現実の再現ではなく、若冲によって再構築された正に若冲ワールド、上機嫌な極楽図のようでもあり、シュールレアリズムの絵画を見ているようでもあった。

自分はまだ若冲を直に見たことはなく、購入した画集を眺める程度なのだが、確かにkyouさんの言われるとおり、一見写実的な描き方を積み重ねているのに、全体はシュールな画面に構成されていて、見るたびに目眩に誘いこまれてしまう。


若冲を見るたびに思うことがある。
この魅力的な若冲の絵画世界は、はたして今ボクたちが感じている魅力を把握し、それを意図して描かれたものなのだろうか。
あるいはマニアックな姿勢でものごとを精密に描いて、とことん突き詰めていくと若冲のような魅力的な世界が出来上がるのだろうか。


源氏物語絵巻に描かれた世界もそうなのだが、どうも日本人の感性には、3次元立体として対象をとらえる側面が弱いのではないかと思えるのだ。現代人の感覚からすると立体空間を無理やりマッチ箱のように2次元にペタンコに潰していると思えてならない。


立体には奥行きがあり、光が当たれば光をさえぎり影ができる。また奥へ行くほど物はみな小さく見える(視野角が小さくなる)。したがって平行なレールの先は一点に収束する。これらは当然のことだとボクたちは思っている。
しかし西洋風な見方が日本に到来する前は、影とか、前後差によるものの大きさの違いというものは、意識されたことはなかったのではないか。あるいは前面に出てこなかったのではないかと思える。
すべて平面内に構成され、したがって影というものが不要となり、色彩鮮やかにものが彩色される。ものとものの間には、雲がたなびいたり木が配置されることで、前後の位置関係が表現される。


再びkyouさんの印象記から。

描写は一見写実的だが、写実を踏まえたうえで充分デザイン化、パターン化されているというのがとても印象的だった。

若冲の眼に映った現実の世界とは、まさにこのような世界そのものだったかもしれない。現代のボクたちの視点から振り返ると、周囲の世界を「意図せずに始めから」デザイン化され、パターン化されたものとして見ていたのではないだろうか。
逆にボクたちは、とらえにくい立体を3次元的に平面に表現しようと懸命に苦労しているのじゃないだろうか。パースが狂うとか影の表現だとか、3次元に表現しなければならない桎梏を課した分だけ、自由な色彩表現や、形に囚われない自由闊達な想像の世界を遠ざけ、締め出しているのではないだろうか。