たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

スケッチするとき思うこと

人間だけが言葉を使う。
対象を表す言葉は、対象から「ある特徴」を抽出し、それを総称した概念である。
リンゴの持つ色とか形、香りという特徴を、他のものと区別して、
これは、「みかん」ではなく、「リンゴ」だと認識する。
頭の中には、「リンゴ」という概念が出来上がる。


絵を描くとき、この頭の中の「リンゴ」という概念が結構じゃまになる。
なぜなら目の前の、リンゴと名づけられた対象を、新鮮な目で新たに見ようとせず、
経験から抽出した頭の中の概念が、真っ先に思い浮かんでしまうからだ。
「リンゴ」といえば「赤い」。「空」といえば「青」。
「家」といえば「箱型でナナメの屋根がついている」。


概念の世界を絵にしてもつまらない。それは万人が知っている平凡な絵になるだけだ。
しかし対象をスケッチしようとすると、この言葉のワナに陥ることがしばしば。
対象を描いているのでなく、おのれの頭の中の生成物を、
紙の上に吐き出しているだけになることが多い。


人間の脳は、隙あらば手抜きをしようとする性質と、
おのれの作り出した概念や理念に、自己陶酔する性質を持ち合わせているから、
ますます事態は複雑になる。


対象をつぶさに見つめることを、手抜きしようとする。
「森は緑で、この絵の具の色でよい」と決め付けてしまう。
「形はこんなものだ、枝はこんな風に出ている」と決め付ける。
そして「どうだ、うまく描けたろう」と自己陶酔する。
対象を見つめている時間より、絵を見ている時間の方が長くなる。


しかしこれでは上手い絵は描けても、感動するいい絵は描けない。
対象を写しとることが目的だったのか、魂が揺さぶられるような感動を
紙に定着させたかったのか・・・
自分の脳にだまされているんだよね。


そして時間がこの魔法を解いてくれる。
後で見直すと、自己陶酔の度合いの強い絵は、無残な姿をさらしていることが自覚できる。
そして対象が描けずに苦しみながら描いた絵は、やはりそれなりの重厚さが備わっている。
サラサラと描けてしまう状況は、用心した方がいいと警戒している。