たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

明白なことはかえって分らない?

板橋興宗という禅のお坊さんが書かれた『<いのち>をほほ笑む』という書物を、
いま読んでいる。余りに明白なことは、人間かえって理解できないらしい。
そこに始めからあるのに見えなかったり、つかめなかったりする。

本を開くと、

「はじめに−みなさん考えてみてください」


私たちは誰でも息をしています。これは宇宙大の「息づかい」なのです。
「私」が息をしているのではありません。もし臨終になって息が止まったら、
「私」の力で息を吹き返すことができますか。「私」の力で心臓の鼓動を動かしたり、止めたりはできません。
「私」が生まれたといいます。これも錯覚です。自分の意志で生まれようとして生まれた人はたったの一人でもいるでしょうか。
それなのに、私は何年何月、何県で生まれたと、平然と言っています。

はっきりと「私」というのは錯覚だと断定されてしまう。
これは実に明快。コソコソ、ウジウジと密かに考えていたことが、
実に当ったり前じゃないかと、あっけらかんと書かれて、
なんだか拍子抜けしそうになる。


この方は曹洞宗の宗派の方だが、只管打坐の禅についても面白いことを書かれている。
いわゆるただ座ることが禅の修業であり、全てであり、
かつ仏の姿の実現であるというような通俗的な理解に対して、それは違うと。
悟ることを求めなければいけないといわれる。

たとえば中国残留孤児のように、実母との間に記憶の断絶があった場合、
どのようにして溝が埋まるのか。いつの段階で、生まれながらの親子の情に
なるのだろうか。

疑いがあるから信じようとする。信じているうちは、ふとしたことで、
疑念が生ずることもある。チョット疑念がおこればつぎつぎ疑いの暗雲がおこる。
その疑念を振り払うために、一層深く信じ込もうとする。

信ずる必要もないほど、ごく当たり前の母子になるのは、いつのことか。
理屈で割り切ってみたり、信じ込もうとしたり、
自分の理性で処理をつけようとしているうちは、不可能である。
ケリをつけようと努力していることを自分の理性が知っている。
信じよう、合点しよう、しかし、という疑念。この理性の苦闘、煩悶の続く最中、
ふと転機があり得る。ああ、お母ちゃん!と、ふところに飛び込んで、
歓喜の涙を流すこともあるだろう。
このように、理性のはずれた一大転機を、仏教では「悟」という。
人間の努力、図らいの苦闘の途切れた瞬間、思わざる転機がある。このときはじめて、
信ずる必要のないほどに、「信じ切れる」のである。

理性のはからいの尽きるまで人間は苦し見続ける必然の中にあって、
ときいたってやがて燃え尽きるとき、はからいがおのずから止む、
という事情が、あるものなのだなとしみじみ思った。
これは森田療法で、「あるがまま」の事情を説明するとき、
よくいわれることである。