たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

四元康裕さんの詩によせて

四元さんの詩を知ったのは、そんな昔のことではないのだけれど、いったいどんな風にして読むようになったのか、定かに思い出せない。まあいいか。たぶん店頭で「噤みの午後」や「世界中年会議」を読んで、「お、いいな」と思ったのだろうと思う。この2つの詩集に「ゴールデンアワー」、それと現代詩文庫179を買い求めた。


勝手気ままな言い方をすると、四元さんのよって立つところは、たぶん理解しにくい部分があるのではないかと思う。端的にいって、詩を本業としていない匂いがする。そこに自分はとても惹かれる。自分もそうだと思うから。


「詩人」という言葉は魔物だ。しかし職業を言い表しているとはとうてい思えない。詩人という職業はこの世では存在し得ない。これははっきりしている。日々の糧を得るための「本業」があって、だいたい詩と無関係なのが現実だろう。つまるところ、詩人とは心のベクトルが常に詩世界に向いている状態、あるいは人のことを言うのだろうと思う。


これまで多くの詩人と呼ばれる人たちは、こころの「本業」は詩ですと、軸足を詩においていたのじゃないかと思う。だってそうだろう。それで無かったら、詩を書き続ける辛気くさい作業なんて、とってもやってられない気がする。
現実と詩世界のギャップ、乖離、矛盾。そういう現実との齟齬を、詩人は詩の側に軸足をおいて表現するのが一般的で、そのことに何も異議を差し挟まなかったように思う。それを信じて疑わないのが暗黙の了解。


でも本当に、それでコト終われリなのだろうか。
四元さんには軸足が2つある、あるいは複数ある、そんな推測をする。複数の軸足のどちらもが本業なのだ。捨てるわけには行かない。それが誠実という意味なんじゃないだろうか。


そんな状況の中で、私は意地悪な想像をする。
どうなのだろう、仮に本業を、詩以外に置いたときに、捨てるわけに行かない詩は、どんな悲鳴をあげるのか。どんなところから現実を突き破ろうとするのか。どんな反応を引き起こして、自分を変形させてでも生き延びようとするのか。そののた打ち回る姿を、現実の側から冷ややかに見つめ、表現するとしたら・・・・


自分が四元さんの詩に惹かれ、これからの詩の可能性を感じるのはそういうことなのかなと、自分勝手な想像をする。


・・・
ぼくは座席から身を乗りだす
こいつの正体を見極めなきゃならない
酸を吐き散らして草木を枯らし子猫を骸骨にして
自らは原爆に吹き飛ばされても生き延びるこいつこそが
詩と呼ばれるもので、命からがら逃げてる方こそ
散文的現実なんじゃないか
・・・

   女優と詩論とエイリアン  詩集『噤みの午後』より