たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

いのちについて

渡邉晃純著『いったい私はどう成りたいのだろう』を読む。渡邉氏は、真宗大谷派の守綱寺の住職の方だ。
こういう本との出逢いは、あとで思うと何らかの必然だったような気持ちに襲われる。というのは、ここのところ生活というのか精神というのか行き詰まりに苛まれてきて、やがて破綻を来たすような予感がしていたからだ。


端的に言って、この世に生まれてきた事実は何を意味しているのだろう。いのちとはつまるところ、どういう現象なのだろう。こうして文章に書けばたいへん青臭い疑問なのだが。そして、このようなアングルから疑問をさしはさんでいる限り、真っ当な解答というのは無いという確信がある。またそれは何故なのか。


著者はこのように書いている。

・・・ところが三歳か五歳ぐらいになると私という意識が出てきて、「これは僕のもの」という知恵がつきます。するとこれが逆転するのです。命が与えられて僕がいるにもかかわらず、僕の命だということになるのです。
・・・

めいっぱい周囲から守られ育てられてきた子供が、ある日、自我に目覚める。所有する権利を自覚するに至る。そして次々と周辺から自分のものを取り込み、自我は肥大していく。
よく言えばひとり立ちしていく過程ではあるけれど、錯誤の道の始まりでもある。なぜなら自分のものは、もともとこの世にはなかった。なかった以上、自分のものだという自我が主張している事柄は、全て盗品である。
盗品ならば、いつか返さねばならない。しかし、一度得たものは手放さない。
本当は命ですら、自分で生み出したものではない。


この食い違いが積もり積もって、やがて行き詰る終結に向かっている気がして仕方ない。グイグイと考えていくと、この点に集約される気がする。昇っていったものはいつかは降下しなければならない。いくら降りていくのは自分はイヤだと言っても、手をゆるめ、最後は全て手放して精算しなければならない。