たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

やっぱり、そうなのか

藤田日出男著「あの航空機事故はこうして起きた」を読んだ。
藤田氏は、本の腰帯によれば、元日航パイロットで航空機事故調査のエキスパートと紹介されている。
店頭でこの種の航空機事故を扱った書籍を見つけると私は、必ずある名前を探す。
山名正夫元東大名誉教授の名前だ。これはもう何十年と繰り返されてきた習慣だ。


読み進むうちに、名前があった。
しかも山名氏が生前、全日空羽田沖事故調査団(1966年2月4日事故)に参画されていた頃に、
当時の事故調査方針に関連して、藤田氏は、山名氏の知遇を得ていたと記載されている。
まさしくこれに関連した事情が知りたかった。
しかし、書籍では比較的淡々と、木村調査団長と多数派が、山名氏らの少数派意見を
考慮することなく押しつぶし消し去る過程を記している。


1970年9月29日の最終報告書は、事故の原因は明確には出来ないという論調で、
パイロットや乗員による人為的ミスであるかのように言外に匂わせる結論でしめくくられた。
調査団の活動中、山名氏は機体欠陥説に立ち、執念に満ちた模型実験を繰り返した。
そして第3エンジンの墜落前の発火(バックファイア)、脱落説を唱えた。
実際に、千葉の海岸からバックファイヤと思われる発火が目撃された事実があるようだ。
書籍によれば、調査団内部で山名氏の通称「山名レポート」の発表は7時間に及んだと記されている。
調査団はそれに反論し、無視し、あいまいな記述で最終報告書をまとめた。
その論理的でない結論の導き方は、事実を事実として認めない別の意図を感じさせる。


30年前のことだが、私は川崎にある大きな書店で、山名正夫氏の著された書籍を
手にしていた。何遍も開いては書棚に戻し、また気になっては開いた。
そして結局、買わなかった。書籍の名前は「最後の30秒」。
羽田沖の墜落事故機の不明な最後の30秒の状況を推論した風変わりな書籍だった。
模型実験に使用できる材料探しから始まり、プールめがけて何百回となく、
突入実験を繰り返し、模型の破壊状況から、事故機の散乱状態にもっとも近い進入角度、
姿勢、速度を推定するものだ。


そのことは柳田邦男氏の「マッハの恐怖」に触れられている。この記述から若かった自分は、
技術者というもの、私感を交えず事実と向き会わねばならないと、教えられるとともに強い感銘を受けた。


しかし、あのとき何故、あの書籍を会計レジに持っていかなかったのだろう。
それから30年間「最後の30秒」を探した。神田の古書店を聞きまわったりもした。
でも結局、手には入らなかった。
以来、探し続けることになるお名前と書籍になった。