どこでもない場所
最近気づいた。自分が描きたいと願う風景は、どこでもない場所なんだと。
日本の中で自分の住む町のある一点だとか、気に入っている風景のポイントを、
描きたいと思っているのではない。ああ、これはあの場所を描いたのだなとか、
あの家を描いたのだとか、そういう個別性のあるところを、描きたいのではない。
どこでもない場所、名前のない場所、個性のない場所を描きたいのだと気づいた。
それはどういうことなんだろう。
つまりは、現実の風景の奥にはっきりと見えている別のものを描きたいということである。
それは何なんだろう。自分でも判然としないが、その場所に立つとわかる。
風景の精霊があるとしたら、その精霊のささやきみたいなものというべきか。
いい風景というものがある。それは、見えている木や山に理由があるのではない。
それらはただの木であり、ただの山に過ぎない。そういうものたちをギュッと絞り込み、
どこか遠い記憶を呼び覚ますもの。
長い人類の生存の歴史の中で、数多くの眼が見てきた風景たち。
それらをDNAを通じて継承しているのかもしれない。
だからいい風景画は、誰が見てもいい。
どこでもない場所は、誰にとっても懐かしいとも言える。