心の奥底へとどく言葉
心の奥底で聞きたくないとひそかに恐れている言葉がある。
わたくしの場合は、最愛のものが「いなくなる」という言葉がそれに当たる。
強く反応てしまうのは、どうしてなのだろう。先日から考えていた。
振り返ると5歳くらいの幼児のときに、肉親がいなくなったら
と想像するだけで泣けて仕方なかったことがあった。
人がいなくなる、親しい人がいなくなる、
このことの辛さは言うまでもない。しかしそれを表す言葉によっても
心を揺さぶられてしまう。それは詩を読む経験から気付いた。
ひとつは、石垣りんさんの「水」という詩作品。
詩の終結に向けて、緊張感の高まる最後のところで、語られる言葉。
この詩は何十年前より気になっていた。
http://www.cek.ne.jp/~h.yadayu/myfavorites.htm
・・・
こわがるのではない、と先生がいいました。
ひとりが進んでいく
せばめられた水路の両わきに
立ち並んだ胸壁はただ優しくせまり
差しのべられた手は
あたたかいアーチをつくって導く
それほど友情と庇護に満ちた日にも
少女はくぐりぬけるのに精いっぱいで
堅く身構えることしかできませんでした
(略)
二十五メートルの壁に触れて背を起こすように
ようやくの思いで顔を上げれば
私の回りには日暮れだけが寄せていて
昔の友も
先生も
父母も
だれ一人おりませんでした。
小学校の庭の片すみにプールがあります。
これは本能的な畏怖なのかもしれない。会うは別れの始まりであり、
人生の四苦八苦のひとつとして、愛するものとはいつか別れなければならない。
それを見たくないために、空騒ぎをしてみたり、何かに熱中したりする。
それは実は、神や仏から見れば、かわいらしくて愚かな子供の姿なのではないだろうか。
もうひとつの好きな詩。
八木幹夫さんの詩集『めにはさやかに』のなかの「草」より。
草
草あそび寝ころぶ先のきりぎりす
ものを食べるときには
しっかりと
よく噛みなさい
噛んでいるうちに
おまえの
顔も
足も
すっかり
草色になるようにね
そうすれば
だれにも見つからず
静かなくらしができるのよ
こどものキリギリスが
顔をあげると
すずしい風が吹いてきた
(かあさんがいない)
かあさんは
ぼくより
じょうずに食べたんだ
原っぱには
オヒシバ
メヒシバ
ペンペングサ
夕陽をともすエノコログサ
限りなく草色になれきりぎりす