ある詩人をめぐって
この頃、また八木幹夫さんの詩集を持ち歩いて、開いては詩を読んだりしている。
そのきっかけは、八木さんが翻訳された仏典を偶然、書店で見つけたからだ。
始めは同姓同名なんだろうと、その翻訳書を手にしたが、間違いなかった。
詩人の八木さんが翻訳・・・というような紹介がなされていた。
愛読している『野菜畑のソクラテス』という詩集は、95年度に現代詩花椿賞と
芸術選奨文部大臣新人賞をダブル受賞されたすぐれた詩集だが、
その完璧なまでのユーモアあふれる作品の印象が、
逆に八木さんをわかり難くしているきらいがないではない。
そうなのだ。きっとそうに違いない。
家族を思い、過ぎ去った年月や、これからやってくる死を思い、
その崩壊過程を目に浮かべつつも、それを韜晦し、
理解しうるギリギリの境界のところで詩の言葉にされているに違いない。
そういう方なのだろうと納得できた気がした。
***
詩集『夏空、そこに着くまで』に収録されている「白い家」という詩から・・・
*
海を見た晩
うなされた
海を見ているあいだには
何も見えなかったことが
夜の眠りの中で
津波となって
襲ってきた
(略)
*
物語が死んだ
断片だけが
狼の遠吠えのように
風にまぎれて
聞こえてくる
物語は本当に死んだのか
愛するものを失った人よ
あなたは本当に孤独か
(略)
*
私という人称であらわされるもの
わたしが
発見したものは何もない
白い家(−一九九九年冬から春へ)