雑感
先日、バスの中で『文芸春秋』の世界に輝く日本人20を読み、
世界に通用する素晴らしい日本人が各界に数多くいることを知った。
むしろ感動したというべきだろう。
で、自分が一番何に感動したのかをふと振り返ったとき、
少し意外に思ったことがあった。
自分は、職業柄、化学、物理の専門家のはしくれの、さらに端にいる者だけれど、
化学分野の輝ける日本人の紹介よりも、
音楽や文学の輝ける日本人の紹介に、はるかに心が動かされたことである。
それはなぜなのだろうと思った。
自分の専門分野だから事前に知識があって、
新鮮ではないということも関係しているだろう。
しかし、本能的に感じたのは、次のようなことだった。
科学技術分野の業績は、所詮、西欧文化の枠組みの中で、
西欧人と張り合う形でしか勝負にならない。
いわば他人の土俵に出かけて行って、
他人のやり方で勝負をかけるという本質的なフレームワーク(限界)がある。
しかし、その分野が芸術だったら、そのフレームワークは初めから対等であるはずだ。
なぜなら何に感動して何を表現するのかについては、西欧も東洋も区別がない。
西欧方式で表現しようが、東洋形式式だろうが、
つまりは、人を感動させられるものが、いいものなのだ。
そして、芸術の世界で輝ける日本人ということは、
その表現が一流であることの証明であることに他ならない。
そういう日本人が数多くいることが、とても誇らしいと思う。
西欧追従型ではじまった科学技術の世界とことなり、
芸術は西欧と東洋の境界なんか、はじめからないわけなのだ。
唐突だが、仕事のパートナーでもあるアメリカ人の友人は、
日本のアニメーションの素晴らしさを讃えて已まない。
特に宮崎駿監督は、彼にとって神様扱いだ。
宮崎作品がつむぎだす空間の中にある感性、細やかな表現を、
西欧にはない次世代の表現として、本能的に嗅ぎ取っているらしいのだ。
ただ、残念なことに日本人は、日本人しか持っていない感性というものを、
当たり前すぎてほとんど自覚できない。
優れた表現形式や感性を過去から現代に至るまで、
日本人が一貫して保有していることを自覚できていない。
無自覚のままに、本能的なところで、新たな芸術作品や形式を生み出している
という状況ではないかと思うのだ。