たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

不安とはなんだろう

この2、3日、ものすごく単純なことを考えている。
そして30年くらい思い込んできたことが、
間違いだったかもしれないと思い直している。
それは不安についてである。


不安は、人生で味わう感情の中でも、
もっとの奥深いところにある基本的な感情であり、
公にせず隠すべき感情なんだと思い込んできた。
捕らわれてはならないもの、捕らわれること自体が
恥ずべきことという受け取り方を、知らず知らずにしてきた。
いわば見たくないものには蓋をするという向かい合い方である。


とくに競争社会の中では、邪魔なものであり、
スネに怪我してマラソンに出場するようなもの。
不安にとらわれた人間は、内向きの問題にエネルギーを
費やしている無駄なことをしている落伍者なんだと見なしてきたフシがある。


どうもそれは、いくつかの点でちがうような気がするのだ。


一つ目。
不安という感情は(むろん弥太夫個人が考えている不安なのだが)、
競争とか、人並みにしなくてはとか、乗り遅れるなという
日本における高度成長時代に醸し出された、2次的感情ではないかと思う。
いわば根の浅い感情ではないか。
競争の出場者でなくなった途端、消え去ってしまうのではないか。
だからまともに取り合う必要なんかないのではないか。


二つ目は、もっと根本的な疑問だ。
人間は死すべき存在なのだから、人生をどこまでも徹底的に検証していくと、
いずれは不安に突き当たり、結局虚無に呑み込まれる終末が待つだけだ、
という考え方だ。
不安をとても過大評価する実存哲学の影響を、
相変わらず受け入れていて、不安や実存を基礎に、
人生論を構築している傾向があるのではないかと思う。


しかし最近しきりに思うことは、不安を自分で生み出していること。
自分で自分を煽っていること。
不安という感情は、それほど根の深い感情ではなく、
うかつな自分が、自分で作りだしては大騒ぎしている。
そんな気がしている。


不安を重大視する自分は、浅いところの自分だ。
人生のことを本当に真剣に見詰ていくと、
そんな問題を通り越して、もっと根本の不思議さに
行き当たる気がするのだ。


ではその世界とは何かと問われても今はうまく答えられない。
生命の意味に関することがらだ、
と言うことくらいしか表現できない。