たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

20年目のドキュメンタリー

昨日、御巣鷹山墜落事故のTV番組を後半みた。
墜落から20年も経過していることに、あらためて思いをめぐらせた。
事故原因を追いかけるドキュメンタリーと、
ボイスレコーダーの公表をめぐり展開されるドラマが
併行して語られている好番組だった。


自分は、事故の起きた当時、模型グライダーを飛ばすことに
夢中だったから、飛行機が飛ぶという原理や技術、そして
飛行機事故がおきてしまうという事実に関しては関心が高かったと思う。
当時、なぜ飛行機は落ちるのかを追求していた柳田さんの著書は、
熱心に読んだ方だ。


番組では、ボイスレコーダに記録されたコックピットのやり取りが
再現されていた。迷走した距離、時間の長さでは、他に類を見ないほど
長い時間を経た死闘だったことをあらためて理解した。


通常ならば、操縦桿をはじめとする人間側の働きかけ(コントロール)に対し、
機械というものは忠実に反応し、その姿勢を変化させるべきものである。


しかし何らかの原因で、その操作系の神経に当たる部分が破損して、
操作する意思が伝達されない状況、あるいは操作は伝達されるものの、
操作すべき翼がすでに失われていて(この事故の場合はこれに当たる)、
姿勢の変化が起きないという事態に陥っているとき、
操作する人間には、何が起きているのかが理解できない。


この事態はとてもよくわかった気がした。
コックピットの中で、なぜだ!と叫びつつあらゆる操作を試み、
死闘を繰り返す姿勢は、このような場面以外にも、普遍的に存在するからだ。


卑近な例で言えば、自分が新技術の開発をしていて、
思い通りに結果が出なくて、なぜだ!と叫ぶのと同じだと思った。
事故の場合は、舵を切ればそちらに曲がるという基本的な操作系が
機能しないわけだが、理解できない不可解な現象に直面しながら、
それを棚上げにできない、突破しなければならないという点では同じだと感じた。
ただ、墜落という最終結末が目前に見えていて、時間的余裕がなく、
瞬時に判断しなければならない点で特異的な状況なのだが。


機長、副操縦士の死闘を垣間見ることができて、
技術と共に生き、技術と向かい合う男たちの叫びを知った気がした。
あらためて犠牲者の冥福を祈りたいと思う。