たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

いつか、ある日に

Yadayoo2005-07-31

「進歩」の考え方が、いかにボクたちの生き方のバックボーンとして
浸透しているのか、それは驚くほどだと思う。
ある意味で、ここに切り込んでいくと、今の社会生活を成り立たせている
いくつかの「安全で、健全な」考え方を捨ててしまうことにもなる。


自分の今の現状を、進歩していく途上の仮の姿であり、
本来の自分は、こんなではないのだと思い続けはいないだろうか。
「いつか、ある日に」自分は、さなぎが蝶になるように、
華麗な変身を遂げて、夢を実現するんだと考えてはいないだろうか。


夢を持つこと、そして実現に向けて努力することが、
何より価値の高いものであり、努力の過程で価値が高まり、
「進歩」していくのだ、と考える。
それは、いまさらと思うくらい当然の考え方である。


だけど、昔から疑問だった点がある。
人生は思うようにならず、事故や病気で命を落とすことは、日常茶飯事だ。
何かの事件に巻き込まれて、不幸にして亡くなる方もいる。
これらの不幸な方々は、志半ばにして「挫折」してしまったのだろうか。
「価値が低い」状態のまま、終点を迎えてしまったのだろうか。


また、不幸にして夢の実現がままならなかっ場合、
その人の人生は失敗だったと、価値の低いものになってしまうのだろうか。
生きてきた人生の意味や、努力を重ねてきた苦労はムダだったと。


己が神のようであり、思いのままに努力して、
夢の実現まで死ぬことなんかないのだと考えていることになってしまう。
すべての価値は、「いつか、ある日に」集約されていて、
いまはそのための準備なんだと考えることにつながる。
しかし、そんなことはないだろう。


だれも自分の力だけで生きているのではない。
水も空気も与えられたものだ。気づいたら与えられていた。
食べ物だって、ほとんど全部が植物の光合成のおかげ、
そして太陽の恵みから来るものである。
あるいは植物を食べて育った動物の肉を、卵を食べている。
食卓を眺めれば、完全に人工的に作りだした食べ物はないはずである。
また、科学をもってしても、蚊一匹作れやしないのだ。


心臓の鼓動も、肺の呼吸運動も、寝ている間も、無意識のうちに行われている。
寝ているあいだに、息が止まり心臓が停止するということだって、
なくはないのだが、ボクたちは安心して何かに体をゆだねて、眠りに就く。


これらの事実と、進歩するという考え方は、どうにも相容れない。
大げさにいえば、何十年とこの相克に、悩んできたともいえる。
人生観、そのものに関わっているから。
そして「進歩しなければいけない」と考えている頭の方が、
やはりどこか破綻していると感じている。