エゴン・シーレの素描
決して安くないお金を払って、エゴン・シーレの素描の複写を買ってしまった。
妻エディットが横たわっている姿を描いたモノのようだ。
年代が1918年だから亡くなる年のものである。
ひと目店で見たときから、刺さってくるような刺激を受けた。
これまで印刷による画集でみた絵の雰囲気とは、かなりちがった。
やはり原寸大で、紙質も似た紙にスクリーン印刷されていて、
鉛筆の触感や走りなどが、直に伝わってくる。
必要な線が描かれていて、必要でない線が描かれない。
絵の表現に、何が必要で、何が不要なのか。
それは画家の力量が現れてしまう場でもある。
エゴン・シーレの線を間近に見ると、
そのあたりがじつに巧みだ。
足の形や足首をかなり丁寧に描いているのに、
クツの途中まで描いて、クツの先端を描いていない。
描いていないことが納得されてくる。
また「描かない」ことの気持ちよさが伝わってくる。
途中まで描いたら、全体を描かなければダメじゃないか、
と考えてしまうのは、「理屈」である。
頭の命ずる観念である。
美にとって、それは邪魔なことが多い。
何が美であり、何が必要であるか、
自分は何に魅かれているのか、
色や形の本質を見抜き、そのエッセンスを表現する。
よく手の動きが上手いとか、いいとか言ってしまう。
しかし、それは手だけの作業とは言えない。
やはり画家の眼が、美の表現に焦点を合わせているということに
尽きている気がする。