たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

あいまいさを貫く言葉

宗教者の生きざまを垣間見るのは、弟子との問答集だ。それは一回きりで真剣勝負、後戻りができない。それだけに言葉に予想外の気迫がこもる。自分はよく盤珪禅師の問答集を見る。その場に走る才気というか禅機が、宗教者の生きざまをあらわにする。


暁烏敏(あけがらす はや)さんの『歎異抄講話』は、若い頃から読みかじっていて、その語り口はとても親しみやすく感じていた。しかしそんな気まぐれな我流の読み方では本当のところは理解できているとは言えず、浅薄なニセ学徒と言うしかない。


先日ある本に暁烏さんの短い問答を見つけた。不覚にも、暁烏さんはやさしい穏やかな人物と思い込んでいたが、とても恐ろしく鋭い言葉で迷いを貫く人だったかもしれない。講演会の質疑の場面だと思われる。

聴衆のひとり:「先生、正直者は結局、馬鹿をみるんじゃないですか」
暁烏敏師:「正直者、おるなら出てこい!」


現代に真宗の勤式を考える会編『自分を見る眼』−掲示法語とその味わい− 

馬鹿を見るから正直でいることは損であると言わんばかり。質問者が口を尖らせている様が思い浮かぶ。質問の意図は、正直であることをやめてずる賢い不正な生き方をしてもいいでしょうか、と先生に許しを請うているのだろうか。


正直に関しては、「正直の心にして、邪偽まじはることなし」という言葉があるらしい。「正直によるがゆへに一切衆生に憐愍(れんみん)する心を生ず」とも言われるという。このような深く透徹した心境にあるのが本来の正直者の定義であるとしたら、損したとか得したとかの話のレベルと噛み合うはずがない。暁烏さんは、そのギャップを鋭く突いた。


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