たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

フラフラと読んでしまった

いかにも現代的というのかその本の表題に惹かれて読んでしまった。
仲正昌樹著『ネット時代の反論術』文春新書531”
腰帯のコピーには、「言われっぱなしで、悔しい!!」からの脱出、とある。
さらに、「副作用を未然に防ぐため、この本は正しく利用してください」とある。
「用量、用法に注意して服用ください」って感じかな。
「副作用がある場合には、直ちに服用をやめ、かかりつけの医者にご相談ください」、
ということだ。


3部構成になっていて、まず始めは、見せかけの論争をする場合。相手にまともに取り合わず、適当にあしらいつつ、ほんとうは自分のファンに対してパフォーマンスをする場合。
2番目は論理詰めのパターンの場合。これは本格論争を辞さないぞという場合。これが本当の論争なのだが、相手もそして自分もしっかりした論拠を持たねばならない。
最後は、人格攻撃を目的とする反論術。自分がダーティになっても、どんな手段を使ってでも、相手をギャフンと言わせ叩き潰す手法について。


読んで面白いかと問われれば面白いと応える感じだが、印象に残ることばはというとなかなか見つけにくい。
反論術の実践書だから、それを求めるのは酷かもしれない。
と思いつつ最後のページまできたら、集中的にいい言葉が出てきた。

”論争”が長引くと、ほんとうは自分は何をやりたかったんだろうと疑問に思う時があるはずです。なんで、”論争”になったんだろう。なんで腹がたってしまったんだろう。なんで引けないんだろう、という具合に。たいていの場合、こだわっている理由はどうでもよいようなものばかりで、どうしてもやらなければいけない論争なんて、この世にはたぶん、ほとんどありません。命がかかっているような”論争”は、「論争」というよりは、むしろ「闘争」と言うべきものでしょう。
・・・・
はっきり言って「論争に勝ちたい」と思うのは、少なくともいまこの瞬間には直接的に命がかかっておらず、時間的な余裕、暇があるということです。


第5章 土俵が違う場合にどうすればよいか  P.211

これは、最後から3ページに出てくる言葉。


次のあとがきの言葉も、けっこう心に響く。

社会的立場上、反論せざるを得ない場合は別として、話の通じない連中は、本気で”反論”する価値のない蛆虫のような存在であり、それに反論したいという欲求を抱いてしまう自分も、人間のクズである、というニヒリズム的な認識を持つようになった。


終わりに  P.216


それって歳をとり、勢いがなくなり、なんだか面倒くさくなってどっちでもいいやという心境になるってことかなとも思う。歳をとると、元気がなくなると共に、人は一人一人違うようだけれど、結局たいして変わらず、同じ運命の中で翻弄されている同志なんだという認識を持つようになる。歳月は人を賢人っぽくさせてくれる。