絵の道具についての雑感
絵を描くことだけは子供のころより情熱を持っていたように思う(それくらいしか取り得がなかった)。それなのに絵を描くための道具やその手法に関しては、いつもオクテだと劣等感を抱いていた。それは実は今もあまり変わらない。絵の具の良し悪しもあまり気にしていないし、それによく知らない。水彩紙だってこれでなければダメと考えたこともない。
好き嫌いはあるにしても、あまり高い道具は使わない傾向がある。まあ子供の頃から家が貧乏だったということがそういう生活習慣をかたち作っているのだろうと思う。基本的にケチね、と家内にしばしば批判される。
いぜん、とても描きやすい紙だとマーメイド紙を友人の画材やさんに購入を頼んだら、実はとっても安価な紙だったらしく、こんなもん(安物もの)でいいのかい、と笑われたことがある。
おかしいくらいの片寄った無頓着ぶりは自分でもヘンだ。透明水彩絵の具でも、友人に手ほどきを受けたとき、画材店にペリカンが売っていたので、それをずいぶん長いこと使っていた。その後、高価なウィンザーニュートンなどを買ったが、そのとき発色がいいなと感じた。でも今あまり使っていない。風景画の中で彩度の高い色彩を使わないので、ニュートンが必須という感じがあまりしないのだ。
結局、今は、このペリカンを結構使っている。
一方、パレットにはずいぶん凝った。手作りの区割りのついたものを使っているが、いまだに最終形にならない気がする。このパレットに塗りつけ乾かした絵の具を、適当に混ぜて濁らせて色を作る。時に草や砂などのゴミだらけになった汚いパレットだ。
絵の具の発色が理由で絵がうまく描けないと思ったことはない。パレットに凝るくせに絵の具がいい加減というのもヘンなのだがネ。
パレットの話のついでだが、お店で白い皿を見るとついつい買ってしまう。板に固定して、手製の絵皿セットにするのだ。これは重宝している。パレットは洗わない。ずっとこのまま使う。最近、この写真とは別の新しいのを作った。
娘がまだ小さい子供のころ、愛らしい寝顔をスケッチしたのだが、このときにはチラシの裏に描いてしまって、正式なスケッチとは呼べない気がする。でも大切なスケッチなので保存している。もっとよい紙に描けばよかったと後悔する。
先日、鉛筆で風景画を描いたとき、鉛筆の削り方に関してあたらしい発見をした(むろん自分にとってなのだが)。芯部分をできるだけ長くむき出すように、周囲の木部を削ると、とても描きやすい鉛筆になる。長く描け続けることができるのだ。普通の削り方は、尖った部分が不足して、始終ナイフで削っていなければならない。絵に集中できないのだ。
その発見をしたときふと思い出した。同じ削り方をした鉛筆を10本以上常に横に置いて都会風景を描いている鉛筆画作家の方がいたことを。うかつな話だ。