たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

本に出会う

久しぶりに感動する本に出会った。小川洋子さんの『物語の役割』という、一風変わった表題の本である。以前、本屋で直感的にいい本だなと購入したのだが、例によって持ち歩くだけで、なかなか読まないでいた(読めないでいた)。しかし読み始めると一気に読んでしまった。


小さな新書本で、別々の場で著者が行った3回の講演会をもとに3章構成となっているが、どの章も人生と物語という得体の知れないものとの重要なかかわりや、なぜ自分は物語にこだわり続けてきたか、子供のころから自分はどう育てられたのか、その中身を語りつくしている印象だ。こんなに作家の原動力のエンジン内部をさらけ出していいものか。


ところで、気に入った文節の上部に小さなポストイットを貼っておくのが自分流の本の読み方。読み返すとき楽であるし、パッと本を振り返ったときに、上部にたくさんのポストイットが付けられるほど、自分のお気に入りの本で重要だということになる。いわば本の勲章みたいなものだ。
じつは立ち読み情報のため、詳細を覚えていないのだが、全く同様にポストイットを本の上部に貼りながら読む手法がその中に紹介したあった。その方はビニール製の半透明のポストイットを使われていたが、こちらも以前からよく使っていた。しかしやや高価であることあまり売られていないので最近は、紙製が多い。


本題に戻る。
本屋で買おうと決心したきっかけは、アウシュビッツ収容所で公開処刑に立ち会ったエリ・ヴィーゼルというユダヤ系作家の述壊に触れた部分だった。

三人のうちの一人は、エリ・ヴィーゼルとほとんど歳の変わらないまだ子供と言っていい少年で、三人が絞首刑で処刑されるのを他のユダヤ人たちは広場で見学させられました。その三人が吊るされた瞬間、エリ・ヴィーゼルの後で、誰か大人が「神さまはどこだ、どこにおられるのだ」とつぶやくのです。その時エリ・ヴィーゼルは、心の中に響く「ここにおられる−ここに、この絞首台に吊るされておられる」という自分の心の声を聞くわけです。
p24
・・・
アウシュビッツの最初の夜に自分の神と魂が、殺害されたんだと感じ、そして自分と同じ少年の中に神を見た、ということがエリ・ヴィーゼルにとっての物語なのではないでしょうか。とうてい現実をそのまま受け入れることはできない。そのときの現実を、どうにかして受け入れる形に転換していく。その働きが、私は物語であると思うのです。
p25


自分は小説はほとんど読まない。作りごとと捉えている妙な偏見があるのだと思う。世の中には真実の世界があり、その永遠の世界を解明していくのが本筋だという思いがある。エンジニアとしてもこの信念がないと仕事にならないという側面がある。だからどのように書いてもいい、自由度がありすぎる、物語や小説を作るという行為が、何となく頼りないもの、どうにでもなってしまうものと無意識に受け取っていた。


でも小川さんの考えによるとそうではない。言葉にならない真実の世界があちこちに潜んでいる。しかしそれを発掘する人がいないために埋もれたままになっている。埋もれた輝く真実を見出すのが作家という人種であるというような趣旨を述べられている。だから物語の成立には作家の恣意には依存しない部分があり、むしろ世の中に埋もれた真実の観察者が作家の役割であると述べられている。


この考え方は、自分には衝撃的だった。
人はなぜ物語に感動するのだろうと以前より謎だった。物語が個人的な思いによりつむぎ出されるものならば、どうして他人がそこに感動を見出すのか、よくわからなかったのだ。感動のベースになるものがなぜ出来るのだろうと。


そうだったのか・・・
結局エンジニアや科学者が、手法こそ異なっていても未発見の埋もれた真実の世界を発掘するのと全く同じように、人々の心の中にある真実を見つめる作業なのだという主張に、自分の中で何かがパラリと落ちた気がした。


でもここまで作家の内側、いわば職業上の秘密を書いてしまっていいのだろうかと思う。講演会がベースになり話し言葉として語られたものなので、飾らない本心が出ているということなのか。貴重な一冊。