たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

友人へ

最近は会うことも少なくなったけれど、もう30年以上の付き合いだから、
気心も考え方のクセもよく知っているつもり。
しかし、たまたま昨日(3/6)のBLOG記事を読んで、モノを言いたい気持ちを
抑えることができなくなった。


これまでも同じ気持ちになることがあり、時にそれを爆発的に口にすることがあったけれど、
理解してもらえたのかそうでないのか、よくわからぬまま、
今日はY君(私のこと)は機嫌悪いね、というコメントで終ることが多かったように思う。


でもお互いにいい年だし、今言っておかないと言う機会が永遠になくなってしまうのでは
ないかという気持ちも抱いている。


BLOGの次の部分を読ませてもらって、しばらく考え込んでしまった。

一つ心にとどめておきたいのは、
人(他人)にどんなに無視されてもかまわない。
ぼくの現状からすれば、どんなに無視されても止むを得ない。
しかし、人(他人)を無視することはできるだけしたくない。
できるかぎり人(他人)を無視しないで生きていきたい。
そんなことを呪文のように毎日唱えている。


ランニングスタートで日々前進
http://morningrun.jugem.cc/?eid=427 より


人を無視することはしたくないという信念の表明が、
なぜだか、スッと胸に響いてこない。
人から無視されるのは仕方ないが、人を無視しないのだという信念の、
その中身がピタッと伝わってこないのだけれど。


わざわざこちらのBLOGに書くことに決めたのは、
昔からこの点は変わっていないなという気持ちと、
いつになったらその内容を言葉で表現してくれるのかなという
期待があるからだ。


よく悲しかったという言葉を文章に使うね。
悲しいという感情を抱いたことはわかるのだけれど、
それは言葉の概念で知るだけで、
その悲しさの中身を表現してくれないので、君の心の揺らめきが
わかった気にならないのだ。
モノや心のいちばん底まで言葉が届かないというもどかしさを覚えるばかり。
文章だけでなく詩の表現でも同じだと思う。


あらためて聞くけれど、人を無視したくないという気持ちは、
どのような感情なのだろう。
普通長年生きていると、気づかぬ内に人を無視して、
場合によってはその人を傷つけていたりする。
生きていく以上、誰かに関心を持つ反面、全能ではないから、
誰かは無視して生きることになってしまう。


そんな自分を許さないという決意表明なのだろうか。
自分の感覚としては、全能であり得ない自分の現実に年とともに次第に気づくというのが実感。
だから、知覚していないところで、どれだけ無視して、罪作りなことを
しているかわからない。
また、どんな無視されても構わないと言い切れる強さが、
ボクの場合は自分に備わっているようにも思えない。


なんだか変なものの言い方になってしまった。