たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

人生論への雑感

古今東西の人生論を、結論からまとめて批評するという勢古浩爾さんの書物を先日購入した。買ったばかりでまだ紐解いていない。なんだかやらなくてはいけないことに追いまくられて、休日に本をゆっくり読むなんて贅沢なこと(?)はできそうにもない。まあそれはともかく勢古さんの視点は変わっている。と同時に共感を覚えた。
というのも、人生論に触れるたびにかすかに覚える苛立ちのような欲求不満のような、そんな感じを著者も感じているのだろうと想像したからだ。
そんなこともあって、このところ人生論のさまざまなあり方をフラフラと考えている。


人生論の問いといったら「人は何のために生きているのだろう」という一点に集約されると考えている。じつはこの問い、幸せなときや人生が順調に進んでいるときには、まったく心に思い浮かばないという性質を持っている。
この手の本を読んだり人生を考えたりするのは、躓きがあったり裏切りに遭ったり、失敗したりと、そんな瞬間だ。
いわば健康体でいるときには、内臓の痛みとか足の痛みとかを自覚しないごとく、人生が順調であればそんなことを考える必要がないという性質を持つ。
この点から推測すると、人生論が果たすべき役割は、まず健康体になることへ誘うことなのだ。


ボクたちの日常の実態は、厳然と存在している人生の意味を把握することができ有頂天になったり、あるいはそれを見失い、そこから踏み外してしまった、という浮き沈みを繰り返すというものではないのだ。そんな実体として掴みうる客観的な意味というものがあって、そこに出たり入ったりしていると考えることは、幻想のように思う。
健康体でいれば、意味自体を考えることすらしない。意識すらしない。いわば人生の意味という言葉自体が無意味である。


健康体になる方法とは?と訊かれれば、これはものすごく言葉を費やさなければならないし、それはさまざまな深さのレベルがあって単純ではない。それも半世紀ほど生きてきてようやく自分なりに理解できるようになったという側面もある。


ただ、ちょっとした生活習慣で、人生における躓きは回避でき、健康体でいられるということは言える。それはものすごく単純で当たり前の事柄の羅列である。でも現実の生活の中では、それをなかなか実践できない。人間は、言葉を操り、ものごとを考える自由を持ったがゆえに、単純なことを当たり前にできなくなった。その辺の消息は、苦労した程度に応じ、掴み取る人は掴むものだ。ちょっと突き放した冷たい感じだけれど、そうとしか言いようがない。