たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

詩の生産Ⅱ

今日は日曜日。夕刻には駒ヶ根から東京へバスで移動する日。車中で何を読もうかといろいろと考えあぐねた結果、辻征夫さんと山本かずこさんの対談記『詩の話をしよう』にした。
われながらしつこい感じもするが、どこかに辻さんの詩を生み出す秘密が書いてあるに違いないと思ったのだ。もう一度読んでみようかなと。で、パラパラと関連しそうなところを読んでは、眼をつむってまとめる、考える、そして居眠る。


「縦の軸と横の軸」という言葉で、ちゃんと語っているじゃないか、と思った。
対談はいろいろな方向に飛んでいくので、前回は読み飛ばしてしまったのだろうか。


以下は、辻さんの語っていることの要約。
詩を書き始めた頃、縦の軸で詩を見ていた。つまり認識の頂点、その極みをさらに乗り越えて、錯乱、常軌を逸した精神状態を保つことで、ヴォアイヤン(見者)になろうとする。これはたとえばランボー、中也。逆に下へ下へと認識の深みの奥底に至ろうとする方向がリルケの詩。


このような基準で詩を書こうとすると、当然のことながら実際にその精神状態を継続するのは無理がある。瞬間的には可能でも、継続は難しい。打ち上げ花火が一瞬で終るのに似ている。そして若き辻さんは行き詰った。


『詩の話をしよう』の別の章に書かれているのだけれど、縦ばかりじゃないとあるとき気づいた。横の軸やななめの軸があるじゃないかと。横の軸には、豊かさがある。それに気づいてから、多作になったと言われている。三十半ばのことである。


とすると、辻さんは、多次元的、複眼的な視点からものごとをとらえ、縦軸だけでなく横軸も加えた、いわば立体的に奥行きのある認識の仕方を会得されたのだろうか。軽妙そうに見えて、しかし本当はシリアス。わかりやすい言葉を使いながら、やはり不思議さを湛えていてどこか謎がある。
うまく辻さんの詩を言葉にしにくい。とらえきれていない。まだまだ、辻さんの詩を読み続けることになると思う。