たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

表現について

日ごろ詩を愛読させていただいている八木幹夫さんから、
先日、拙いボクの絵について批評を頂いた。
その中で、おや面白い視点だなと感じたのは、「捨象と強調」という座標軸だ。
あるいは「何を描くか、何を描かないか」という風に置き換えてもいいと思う。
この言い方は日本画家の千住博さんの著書で知った。


絵を描いて完成させていく作業を、時間軸の中で並べなおしてみると、
たいていは、描こうと願ったことをまず紙やキャンバスの上に
表現しようと努めていくと思う。
モチーフの良し悪しはさておいて、モチーフの表現としては、
「いまが完成だ!」という瞬間がある。描き始めた時の意図が、達成された瞬間だ。


しかし大抵は、完成だとは思っていても、この木の色は遠くとバランスが取れていない、
などと後ろ向きの視点が生まれるのが常だ。
後ろ向きという言い方は適切かどうかわからないが、
表現者の立場から、批評家の立場に移行する折り返し点である。


そして手を入れれば入れるほど、欠点のない完成された絵になる。
木の色も良いし、家の屋根がゆがんていたのも直り「上手い」絵になる。
しかし何だか絵が詰まらなくなったことを発見する瞬間でもある。


つまらなくなったのは何故か。手を入れすぎたか。
それなら元へもどそうか。
ここから別の苦しみが始まる。筆を置くことのなんと難しいこと!


八木さんのコメントを頂いて、この話は、案外文学においても
共通かもしれないなと思った。
端的に言っちゃえば、「表現」と「説明」の違いなのではないだろうか。
詩は表現でなければいけないが、作者の感情の説明ではない。
表現は、表現で自立する世界だ。でも説明の方はちがう。
伝える側と受け取る側がいる関係の中で、説明は伝える側の立場表明みたいなものだ。


感動を造形の中で表現できているのが魅力的なすぐれた絵であるのに対し、
「これは木を描いた。これは教会の屋根、これは鳥なんだ」と
造形をつかって別のものを伝えようとしているのが、説明の絵ということになる。


口で言うのは実に簡単。言いながらなかなか実行できない。
できたら口は噤むべきなんだろうが・・・