たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

表現の自由

デンマークで連続乱射事件が起き、
警察の応酬で男を射殺したと報じられた。
これはイスラム過激派のテロであるという
推定がなされている。

ねらわれたのはある画家が参加している集会で、
画家はイスラム過激派から指名手配されている人物だった。
指名手配の人物とは、
いずれも預言者ムハンマドを揶揄したり戯画化したり、
イスラム教を貶める表現をした指名手配者たちである。

危惧しているのはこれらの事件の本質として、
宗教戦争が始まっているのではないだろうか。
表現の自由の名のもとに、異教徒の聖者を
どんな風に表現しようと意に介さないという
頑なさを感じてならない。

言うならば、一神教同士の相克、
その争いの際限の無さを見る思いがする。
矛盾という言葉の語源を見るまでも無く、
どんなものでも突き通す矛と、どんなものでも
食い止める盾が争ったら、何がおきるのか。
どちらも、どんな相手でも破れるという「絶対」を含む。
相反する絶対同士が闘う戦場からは本当の結論は出ない。

身の周辺では、西欧流の考え方
(つまりはキリスト教圏の考え方)をベースに
ニュースが報じられ、意味づけされている。
けれども、今報じられているような観点からは、
解決を見ることは無いだろう。
それは何百年という宗教戦争の歴史
(十字軍の戦史)を見れば明らかだ。

表現の自由に関して、それを制約すべきだ
という根拠は、あまり明確なわけではない。
一神教の教義からは、それは出てくるはずの無いものだ。
われらの神こそ唯一絶対の神ならば、
それ以外の異教徒の世界の事情に関しては
何を表現しようと構わないとなる。

しかし、そこにこそ問題の本質がある。
この世界には自分たちしかいないと考えるのか、
多様な世界が広がっていて、ちがう価値観をもつ、
ちがう人々が生きているのだと観るのか。

今回の事件などをみるまでもなく、後者のような姿が、
この現実の真実の姿だ。東洋的な思想では、
それが自然である。

一神教に馴染む人たちに問いたい。
なぜそのような複数の世界を、神は作ったのだろうか。
その意味は何なのだろうか。


(2015年2月16日 SNSサイトの日記記事より)