絵の空白をどう見るか
水彩画、とくに淡彩画では、絵具を塗らない白地のままの部分が出現することがあります。自分の風景画の場合では、空をぬらない絵のほうが多いかもしれません。
このような絵に対して、これは本当の絵ではないというとらえ方をする人は多いようです。つまり絵とは画面いっぱいに何らかの絵具を塗り、そこに手が及んでいることを示すべきという考え方ですね。
いろいろな考え方があっていいと考えています。自分としてはその空白が「生きている空白」であれば問題なく、「未開拓の空白」であれば、途上にあるというふうに一応分けています。生きている空白とは、わかりにくいかもしれませんが、何も塗られていなくてもその空間が絵の中で役割を担い、意味を持つ場合です。
以下は雑然とした空白に関する断章です。
●日本の場合は、掛け軸の絵のように空白を積極的に利用して、その価値を高めた伝統があると考えています。これは書にも通ずるものがあり、根源には仏教の「無」というものが関連していると推察しています。空白ではなくそれは無なのだと。
●無とは何かと言い出すと際限ありませんが、基本的には空虚ではなく、無記名の存在の充溢というとらえ方をしています。無記名とは偏りが無く、プラスとマイナスの均衡が取れていてゼロのような状態です。空ともいいますね。
●量子力学の場の理論では、真空の空間でさえ上記のような均衡した粒子が充満しているととらえます。マイナスに偏れば電子の存在が現れ、プラスならば陽電子というような見方なのです。海の中では、空気の気泡がまるで粒子のように見えます。でもその実体は空気で、海で「無い」部分に過ぎないのです。
●もともと西洋的な思想には、独特の「虚」への怖れのようなものがあり、ものが無いことは許されないという風に考えているようです。神が存在を創り出したという大前提に立つ以上、無いということは神が否定された状態と見るのかもしれません。
●音楽でも西洋の音楽は、四六時中音が鳴っているようなところがあります。静寂が無いのです。自分は西洋音楽を聞き続けると静寂がほしくなります。しかも強烈に。