たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

晴れて本当の信州人となりぬ

今日は11年間におよぶ東京の単身生活に終止符を打った。アパートを引き払い駒ケ根に「帰った」。深夜4時(今日の明け方)まで片付かないものを片付け、捨てられないものを捨てた。じつは整理整頓を始めた頃は、本当にこんなペースで引越しできるのかとかなり不安な状況だった。というのも部屋には書籍が溢れている。今後使うもの使わないもの、愛着のあるもの、愛着はないが世の評判のいいもの、捨てると損なもの、などなど全数をチェックし選別したからだ。その結果、ざっと200冊を古紙として捨てた。頭は痛くなるし、腰も疲れてくる。それに一度にこんな廃棄物を出してしまって、市の引き取りがきちんとなされるのだろうか。残留されたらもう東京には戻らないゆえに本当に困ってしまう。


一人の作業で、黙々と作業を進めているうちに、本当に気が滅入った。同じ本を2冊買っていたことにも気づいたし。また定年間際にもなって夜ひとり、オレは何やっているんだろう。夜の11時近くなるのに作業の進展は進まず、今日は床には就けないかも。徹夜かなと思うようになった。


しかしこののち不思議な体験をした。腰は痛むし頭も痛い。もう徹夜になっても仕方ないやと、12時頃から淡々と片づけをするうちに、体はよく動くようになり片付け手順も次々と頭に浮かぶようにもなり、ふと気がつくと夜中の3時少し前くらいになっていた。この間の時間の感覚がまったくない。片付くのかどうかという心配も不安も消えていた。ただ作業に無心に打ち込んでいるだけ。そのときは自意識もない。あとで振り返り、はじめて気づく、「ああ、いま禅でいう無心の境地だったんだ」。心配や不安や妄想が消えてしまっている時間を、客観的には一番追い詰められている状況下で体験したというわけ。きっとそのときは、脳からアルファ波が出ていたに違いない。


ものごとを始める前には、いろいろと心配したり不明な点が出てきて、頭を支配してしまうことは多い。答えのない問いかけに対して頭が空転している。でも無心の状態とは、それを突き抜けた先にあり、いわばものごとと一枚になり余計な夾雑物が湧いてこない。心配することがらが頭が無くなくなりただものごとと一体化している。こんな明瞭に自覚できたのは初めてだ。


引っ越した書籍の数は、ダンボール数から推定して600冊程度だろうか。200冊を捨てた勘定になる。なお市による古紙回収日の前夜、私的にトラックで巡回し書籍を回収している人がいて(3時頃の深夜だ)、寝る頃には紐でしばり出してあった200冊がきれいさっぱりと消えていた。これで心配もひとつ消えた。


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