たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

絵画教室のメモ・リライト[鉛筆画][風景画][スケッチ]

今年になって野外で開いた絵画教室のメモをまとめて
アップします。3回とも駒ヶ根市の天竜川近く、
下平という地域にある丸塚公園で開催しています。


  • 2012年4月10日(月)丸塚公園

仕事はお休み。
そのかわり春になり、本年度の野外の絵画教室をスタートさせました。


新しい生徒さんが参加すること、
はたまた冬の間のブランクがあったためか、
始まる前の緊張感は並ではありませんでした。
(なんでだろう?)


冬の間のブランクは、自分がスキーをするためじゃなく(笑)、
冬の時期、駒ヶ根の野外はとても寒く2時間もいたら凍えてしまうためです。
以前、水彩の水分が紙の上でつぎつぎと凍ったことがあります。


わざわざ前日に現場の構図の下見をして、候補を2つ選びました。
ひとつは目の前に広がるひろい田園風景。
もうひとつは小川の流れの風景。


当日はとても緊張感の強い教室でした。
例によって、生徒さんが後ろから見ている前で、
スケッチブックに構図を描きながらポイントや注意点を説明します。


いつも始める前に、今日はうまく行くのだろうか?と心配になります。
だって白紙ですからね。今日はうまくまとまるのかい!?
それに生徒さんのほうが上手だったら様になりませんし。


ということで、たった10分ほどの孤軍奮闘ですが、
とても緊張しながら集中して鉛筆のサンプル画を描きます。
今回の構図は、公園の樹木の中を流れる小川が、
S字状にくねりながら流れる風景を題材にしました。


B4サイズ 鉛筆 2B、4B、2H 10分程度



  • 2012年5月14日(月)丸塚公園

休日の時間を使い、野外の絵画教室を開いています。
5/7と5/14の2回とも、幸い天候に恵まれました。


集まった場所は同じ丸塚公園という静かなところです。
絵のテーマをあえて変えるため、ひとつは広い景色の広がる田園風景、
もうひとつは公園の中の道の風景を選びました。


それぞれに描く上で、陥りやすい罠があります。
実際の現場で、それら注意点を鉛筆でサンプル画を描きながらデモします。


生徒さんの前で描いたサンプル画。
B4サイズの画用紙(あまり大きいと時間を要するため)、
鉛筆は2B、Hが主体です。時間は10分程度。




  • 2012年6月11日(月)丸塚公園

先日6月11日に開催した絵画教室のサンプル画をアップします。
今回のねらいは、水平線をしっかり意識して構図を決めること、
およびそれに関連する周囲のものたちのパース(透視図)を
きちんと決めることです。


風景画を描く際には、「H字型」構図で描くように教えています。
まず
(1)水平線を決めること。
(2)次に左右の端に納めるものの位置を決めること。


左右のものとしては、立ち木だったりベンチだったりしますが、
それを左右に配置すると、真っ白な紙のいっぱいに、
H字型に水平線と左右のものが描かれることになります。
生徒さんは、左右のどちらかの端から描き始めることが多く、
それから順に追って描いていくと、紙の反対側が空きになったり、
描ききれなくなって入らないということになります。
初めの頃は、紙の中央80%くらいの範囲に、
描きたいものをズバッと入れるのがけっこう難しいのです。


また水平線は、水平線の上にあるものが多いのか(山とか雲など)、
地面側にあるものが多いのか(田んぼの風景や川)によって、
下側に引いたり、上側に引いたりします。
真ん中に水平線を引くことはあまりしません
(日の丸構図で、ドーンと家を描くときくらい)。


H字型が決まったら、近い立ち木の根っこや、
家の土台が自分からどのくらい離れているか、
その距離により水平線の基準から下がる量を決めます。
足もとにあるものは、ほぼ紙の下端になりますし、
遠くのものは水平線に近いということです。


このようにしてH字型の骨格を基準にして、
描く対象物をどんどん位置決めていきます。
このようにすると、短時間で構図が決まることになります。


じつはこの構図のポイントは、もう一つあって左の案内板のパースです。
案の定、生徒さんの絵の案内板の上辺、下辺は、
水平線の消失点に向かわず、狂ってしまいました。


生徒さんの前で描いたサンプル画:
B4サイズ 鉛筆 2B、B、H 10分程度


日記のリライト(その2) 似顔絵の練習 [似顔絵][デッサン]

以前、次女の結婚式用に、ウェルカムボードを製作し、
そこに次女とお相手のかたの似顔絵を描きました。

それ以来ですが、今年似顔絵をちこょっと描いたことがあります。
おもに訓練が目的です。少し似ていれば、自己満足もあります。
下の記事は、そのとき書いた記事のコピペです。


■2012年3月22日 吉永小百合さん [似顔絵]

デッサンとはちがうけれど、形を見る訓練になるかもと思い、似顔絵を描いてみました。
顔を描くことは、似ているか似ていないかが、すぐ分かってしまいます。それだけ厳しい訓練になります。
実をいうと、このサイトの会員さんで、そんな訓練をしている方がいて、ちょっとまねです。


第1作目は、吉永小百合さん。
この方は本当に美人で、美人顔には特徴が少ないのです。バランスが取れていて難しい対象です。


鉛筆4B、H。月光荘スケッチブックF6、時間3h程度。



■2012年4月11日 仲間由紀恵さん [似顔絵]

吉永小百合さんに続いて、美人さんの似顔絵を描いてみたいと思いました。選んだのは仲間由紀恵さん。


でもこれは失敗だったかもしれないと思いました。
美人は顔が整っている
 ↓
バランスよく、特徴がない
 ↓
絵を描くに手がかり難
 ↓
似せて描くことが難しい

というような理由なのですが、とにかく難しい!
描いても描いてもなんだか近づかない感じ。
疲れ果てる対象です。


仲間由紀恵さんは、とにかくおでこがきれい。
そしてまゆがきれい。本物の持っているオーラというのか
美人を美人にしているその奥のものがなかなか出てこないのです。


もういいか、というところで区切りをつけます。


鉛筆4B、2B、H。月光荘スケッチブックF6、時間4h程度。

日記のリライト 大震災と犬 [日常]

ほんとうに久しぶりの更新です。
じつは書くものが無かったとか、忙しかったとか
そういうことではなくて浮気をしてました。
あるSNSサイトを中心に日記を書いていました。
それなりに記事が溜まりましたが、
結論から言ってそのSNSを退会しようと考えています。
その理由はまた記す機会があるかもしれません。
いまは書きません。といってもトラブルを起こしたとか
事件があったというのでなく、内発的なものです。


そこに記した日記は、それなりに膨大で、
退会とともに消滅してしまいます。
そこで残したいと感じる日記をリライトして
日にちをさかのぼり、ぼちぼちと書いていきたいと思います。
ほとんどがコピペになるだろうと思いますが・・・



■2012年3月9日 大震災と犬 [地震][犬]

今日3/9は、16歳まで生きた柴犬の命日に当たります。
ちょうど一年前の夕刻でした。
老齢で目もよく見えない犬が行方知れずになり周囲を探したところ、
ふだんは行かない温室の裏の水路で発見されました。


翌日、庭に埋葬してあげました。
生まれ変わりを信じているわけではありませんが、
なにかの木を植えてあげようと思い、
次の日3/11に家内と植木屋さんに出かけました。


その道すがら、車で信号待ちをしていたところ、
2時30分車が揺れました。走っていたら気がつかない程度です。
当時車が不調だったので、エンジンの様子かなと思いました。
でもエンジンは止まる様子も無く、
周囲にダンプカーでも走っているのかと見ると、
そんな気配もありませんでした。家内も揺れを感じています。


植木屋さんに到着すると、ラジオからニュースが流れていて、
たった今、大きな地震があり九段下にあるビルの天井が落下したという内容でした。
すぐあとに、今度は仙台の方でも被害が出ているという情報が入りました。
3時ちょうどくらいでした。
これが日本をどん底に突き落とした大惨事の最初のニュースでした。


地震の起きるちょうど15分前に車にいて感じた小さなゆれは、
なんだったのだろうと家内と首を傾げています。
周囲の人も知らないと言うし、地震情報もありませんでした。
大きな揺れの前にも発生する前震と呼ばれるものがあるそうですが、
詳細は不明のままです。


地震予知に莫大な予算が投じられているにもかかわらず、
今回の予知ができず、内心忸怩たる思いの地震学者の姿を追った
ドキュメンタリーを観ました。
今、地震モデルとして主流なのは、アスペリティ・モデルというもので、
異種のプレートで滑りあう境界面に、強く引っかかる部分(アスペリティ)が
あるはずで、ここが外れてしまうと地震が発生すると考えるモデルです。


このアスペリティの存在を探し、歪を予測することで、
地震予知をするという考え方ですが、そんな単純なことで済むのかと感じました。
大規模で広範囲の地殻の運動を、そんな単純化して考えることができるのか、
はなはだ頼りないのです。


植木屋さんで購入したのは山茶花の木でした。
根元にはクリスマスローズの苗を3本ほど植えました。
亡くなったものに形は無く、風のように吹き渡っているだけです
という歌がありますが、しかしなかなかそうは考えにくい。
山茶花を見ると愛犬ココの姿を思い出します。

アルシュ紙に描く

先日、自由時間を使って駒ヶ根の光前寺へでかけました。のんびりと古刹を眺めたい気分だったこと、そこから絵の題材を探すことが目的でした。今まで描いたことのないテーマで、水彩画を試みたい気分です。


山門をくぐり、小さな流れのところに橋が架かっていて、その先に本堂があります。この流れは淀んだ感じで、紅葉の落ち葉が沈んでいたりしていました。光が木漏れ日のように差し込んでいて水面に反射しています。


なんとなくこれだ!と言う思いでした。何度も何度も水路の周りを巡って、光線の向きなどをいろいろと探ってデジカメに撮影しました。


描いた水彩画は次のとおりです。

『光前寺の庭にて』透明水彩 アルシュ紙 54×34cm




こちらは描いている途中の状態です。
こういう場面がいちばん楽しくてワクワクしています。

ファブリアーノ紙で描く

イタリアから帰国したSさんから、大変貴重なお土産をいただいた。イタリアの水彩紙ファブリアーノ紙とフランスのアルシュ紙だ。なかなか取り組めずにいたのだが、ようやく、ファブリアーノ紙に水彩画を描いてみた。


いただいた紙はやや薄い200g。しかし水貼り(平貼り)すると収縮が強くて水貼りテープが切れてしまった。やり直すと今度は、一部が剥がれてきてうねりができてしまう。けっきょく透かしの入ったところを避けて、逆さまにして描くことにした。


下塗りをして驚いたのだが、横方向へのにじみの度合いが強く、微妙で複雑な斑紋がでやすい。水貼りでテープが切れるほど収縮が強いことと考え合わせると、たぶんこの紙は、長い繊維が漉かれていて、一本一本の繊維が横方向に長く走っているはずだ。そのため、水と絵の具の粒子が横方向へよく浸透して動くのだろう。


いままでこういう紙とは付き合ったことはなかったので、不思議な感覚にワクワクした。うまく使えば水彩らしい表現がいろいろとできる気がする。水彩紙らしいにじみ具合が大変気に入った。



『東伊那の夏』
水彩 ファブリアーノ紙 B3(570×380mm)サイズ 200g ほぼ白


デジカメ画像だとにじみ具合があまり見えない(道路の部分に少し見える)。原画に向き合ったときのドキドキ感がちょっと現れていないのが残念だ。この絵画は完全に室内で描いた。


下は、夏に現場で描いた鉛筆スケッチ。モチーフはこのスケッチの風景だ。
でも、だいぶデフォルメしたところもある。


次のステップにむけて

これまで描いてきた水彩画は、どちらかというとスケッチに近い存在だった。それを水彩画と呼ぶこともあったが、本作(タブロー)の水彩画との距離感はあった。


スケッチと本作のちがいのひとつは、線の扱いにある。


線とは太さを持たないものと定義されるが、この世の中には線というものは存在しない。3次元空間の中では、何がしかの太さを持った長い長方形しか存在しない。


それをスケッチでは線を抽出し、ものを表現する。いや、ある意味で線だけで表現する。色をつけるのはその線で囲まれた領域だ。この領域には、面の向きとかの概念はない。


実際の風景にあるのは、複雑な面の組み合わせからなる立体で、それぞれの面には、色彩と差し込む光線が作る影が存在する。明るさの異なる面が接しているところに、線が見える。でも、ほんとうは面の境界だ。線と思っているのは人間の脳の解釈である。


この面の持つ色彩と光と影による表現を行うときに、おそらく本当の水彩画になる。


とまあ、講釈たくさんなのだが、実際の水彩画はどうしたらいいのか何年も考えてきた。スケッチのような表現から脱するには・・・


このごろやっと、この路線にそった絵を何枚か描き始めている。
あいかわらず駒ヶ根の風景画に取り組んでいるのだが、どんな風に受け取られるのだろう。
最近しあげた3枚ほどを掲載する。



一枚目は、駒ヶ根を流れる天竜川の両側の流域にひろがる田んぼの風景。
じつは、かなり以前に新しい描きかたの試みをしてみたものの、まとまらずに放り出していた。スケッチとのちがいなどを考えているうちに、まとめられる気がしてきて仕上げたもの。

水彩画 43×35cm 紙はたぶんモンバルキャンソン紙


2枚目は、自宅前の道路の風景。こんな田舎に住んでいることが分かってしまう風景だが、これを描きながら、これまでとは違うものが描けるという自信のようなものを感じた。

水彩画 50×35cm マーメイド紙


3枚目は、同じく自宅周辺の風景。こんな方法で描こうと心に決めた一枚だ。柿の木の風情がとても美しく写真に撮影した。絵画の方は完全に室内で描いた。

水彩画 36×54cm マーメイド紙

日々、徒然草をながめている

栗ばかり食ってご飯を食べない娘の逸話を徒然草でたまたま目にして、それ以来いつも手元に徒然草を置いてパラパラと眺める習慣となった。といっても自分もリタイアして隠遁生活をしているので共感を覚えるというわけではない。ちっとも引退などせず、逆に以前より忙しい日々を送っている。


高校生の頃、お決まりの科目として古文の授業があり、徒然草の読解がでてくるが、ぜんぜん面白いとは感じなかった。冒頭の序段文章の暗記をするくらいだ。妙に説教くさくていやらしいとさえ感じていた。


それが、兼好法師の息遣いというか、言っていることの生々しさを妙に面白いと感ずるようになったわけだ。日ごろから読むようになるのだから、相当な年月を経て後そんな年齢になってしまったということでもある。


そのきっかけになった頃の記事を、以下に2本転載しようと思う。
あるコミュニティーサイトの日記に書いたものだ。


※付記
1ヶ月以上のブランクの後の更新で誰も見ないんじゃないかなと思っていた。
しかし、アクセス数をのぞいて見たら、なんと!
更新されていないBLOGをマメに見てくれている方が結構いらして、本当に申し訳ない気分になった。
さらに言うと、あちこちのサイトに書き散らしているスタイルにも、なんだか飽きてしまった。自分の書いた文章がどこにあるのかが分かりにくくなる。それに精神分裂ぎみになる。それぞれのサイトの筆者というのは別人格になっていくところがある。
なので、分野なんか気にせず、自分の興味の向くまま書けばいいのだ、という開き直りの気分になっている。

■ちょっと愉快な気分かな・・・(転載記事 その1)


徒然草の本を購入したのは、はるか昔、30年以上前だ。さすがに虫喰い跡なんかあって、ボロボロな感じ。持ち歩くには、ちょっとねぇ・・・


新しい本でも買おうかと本屋さんで探してみるものの、いま文学書をおいている書店は、この駒ヶ根周辺にはない様だ。


たしか嵐山光三郎さんの意訳本の徒然草があった。それが欲しかったのだけれどね。昔立ち読みして、とても面白かった。でもそれも幻で、買えなかった。あのとき買っておけばよかった・・・


結局、仕方ないので、高校生向けの参考書として出版されているものを買った。税抜き750円。安い。


でも思わぬ余禄があった。
前日記「そこはかとなく可笑しい」でふれた第四十段の、栗ばかり食べている娘の話が訳してあるかなと探した。この参考書は抄録なのだ。


見たら、あった。
解説を読んだら、この段は、小林秀雄さんの随筆に取り上げられている段らしい。『無常といふ事』の中の徒然草で、鈍刀で彫られた名作と記されているらしい。


「これは珍談ではない。徒然なる心がどんなにたくさんのことを感じ、どんなにたくさんなことを言わずに我慢したか。」と結んでいる。


小林秀雄さんもこの段に惹かれていたことを知って、ちょっと愉快。徒然草は、多少説教くさいところもあり、それが鼻につくのも事実だ。


そのためか、この段のように事実を短く記しただけの文章は、かえっていろいろな含みを感じていい味と感じる。


兼好法師も、蛇足的に説教を垂れることもできただろう。それを、あえて言わないことで、余韻を残している。


でもそれにより、物言わぬは腹ふくるるわざなり、とまあ筆者としては苦しくなることもあるわけだがね・・・
(正確には第十九段の、おぼしきこと言はぬは腹ふくるるわざなれば・・・という文章だ。蛇足。)


■そこはかとなく可笑しい(転載記事 その2)


学生のころ、徒然草が教科書にとりあげられていて、いくつかの代表的な段は読まされたように記憶している。たいてい、妙に訓話的な節が取り上げられていたため、徒然草は、なんだか堅苦しい読み物というイメージになっていた。


それでも、ある程度の年齢になると(まあ定年、リタイアの年代ということだが)、ふといくつかの徒然草の文章の断片が脳裏によみがえることがある。それほどまじめに勉強したわけでもないのに、けっこうそれを思い出すということに驚く。


記憶が良いというより、長年生きてくると、思い当たるフシがたくさんあると言うことである。思い当たるフシとは、やらかしてしまった失敗なのだが、たしか兼好さんがひとこと言っていたはずだよね、と思い出すのだ。後世にまでけっこうな浸透力を働かせている兼好さんである。


で、ある程度の年齢になってから読んでみると、それほど教訓的ではないということに気づく。やっぱり教科書は、教育的配慮で作られているんだな(当たり前か)。


第四十段に、栗好きの若い女性の話が出てくる。この女性、けっこう美人だったらしく、大勢の男から結婚を申し込まれていた。ただ栗が好きで、ご飯の類を食べなかったらしい。兼好さんは、サラッと書いている。その親は、こんな変な娘を嫁に出すわけにはいかないのだと、結婚を許さなかった、と。


文章はこれだけなのだが、兼好さんはいったい何のためにこの文章を記したのだろう。ちょっと不思議でもある。むろん米を食えと言いたかったわけではないだろう。


あえていえば、娘が娘なら、親も親だな・・・と言いたかったのかな。
「娘も人前では、米くらい我慢して食べればいいのに・・・
いっぽうの親も、そんなことで肩肘張って娘の人生を縛ることもないだろうに・・・どっちもどっちだ。」
「でも人生は、そんなことが多いもんだよね・・・」
そこはかとなく可笑しい話ではある。