たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

ポジティブ思考について

雨が降っている。
それでも外出しなければならないときは、
憂鬱な気分になる。濡れるのはイヤだし、寒い。
これはこころに生じた実感のそのままだ。

ところが雨が降ることはいいことだ、
なにより水不足にならずにすむとか、
涼しくて過ごしやすいのだとか、意味づけを
マイナスのものからプラスに変えていくのが、
ポジティブ思考というもの。

脳は、認知という働きで、外界のものを意味づけする。
雨が降って、外出がイヤだなと
よくないこととして意味づけしていた雨降りを、
ポジティブ思考では、
その意味付けを逆転させようとする。

でも所詮は、認知脳の行う意味づけの
変換の作業であって、認知脳は
意味から意味へと渡り歩いている。
認知脳は、外界にある対象を意味づけする思考。
その意味づけをいい方向に変えるというのが
ポジティブ思考の方法論だ。

ポジティブ思考の無理なところは、
第一義に感じた受け取り方を、
自分の都合のよい方へ意味づけを変える努力を
自分の脳に強いる点だが、
それはとりあえず、おいて置く。

認知脳のあり方とはちがう脳の思考法があると、
スポーツドクターの辻秀一さんは言う。
そのことを著書『禅脳思考』という本に
書かれているが、自分もそのことをつねづね考える。

認知脳が、対象を定めてそれの意味づけをするという
働きをするのに対して、
禅脳というのは意味づけをする以前の原始の状態へ
戻る思考である。
(思考という言葉は不適切な感じもあるがとりあえず思考と呼んでおく)
いわば自分の元の状態へ戻りながら自分の成り立ちを
理解するという方法論である。
道元禅師が退歩すべしと言われているのも、
この事情を述べていると解釈している。

この禅脳の状態にあるときに、ポジティブ思考のことを見ていくと、
認知した意味づけを、もてあそんでいるかのように見える。

たとえていえば、お金を使ってしまって、
財布に1万円しか残っていないと考える場合(ネガティブ思考)と、
まだ1万円あると考える場合(ポジティブ思考)がある。

禅脳的な見地からすれば、そのどちらの思考も、
1万円というお金に対する意味づけを、いじり回しているだけで、
1万円というお金は多くも少なくもない。ただの1万円というだけなのだ。

禅脳思考は、その自分が行っている意味づけという行為を自覚せよ、
そして意味づけにとらわれない世界を知れと促している。

さらに、自分の行っている意味づけだけでなく、
自分の内面で起きている感情の揺らぎや起伏も
見つめていくようにと促すものだ。
おのれの内面に沸き立った嫉妬心や怒り、悲しみの感情を、
しっかり受け止めるということを促すものだ。
辻秀一さんも著書で言われている。
認知脳で生きている人は、自分の感情に気づくという感性が
劣化していると。

 

2015年1月4日 SNSサイトの日記より

表現の自由

デンマークで連続乱射事件が起き、
警察の応酬で男を射殺したと報じられた。
これはイスラム過激派のテロであるという
推定がなされている。

ねらわれたのはある画家が参加している集会で、
画家はイスラム過激派から指名手配されている人物だった。
指名手配の人物とは、
いずれも預言者ムハンマドを揶揄したり戯画化したり、
イスラム教を貶める表現をした指名手配者たちである。

危惧しているのはこれらの事件の本質として、
宗教戦争が始まっているのではないだろうか。
表現の自由の名のもとに、異教徒の聖者を
どんな風に表現しようと意に介さないという
頑なさを感じてならない。

言うならば、一神教同士の相克、
その争いの際限の無さを見る思いがする。
矛盾という言葉の語源を見るまでも無く、
どんなものでも突き通す矛と、どんなものでも
食い止める盾が争ったら、何がおきるのか。
どちらも、どんな相手でも破れるという「絶対」を含む。
相反する絶対同士が闘う戦場からは本当の結論は出ない。

身の周辺では、西欧流の考え方
(つまりはキリスト教圏の考え方)をベースに
ニュースが報じられ、意味づけされている。
けれども、今報じられているような観点からは、
解決を見ることは無いだろう。
それは何百年という宗教戦争の歴史
(十字軍の戦史)を見れば明らかだ。

表現の自由に関して、それを制約すべきだ
という根拠は、あまり明確なわけではない。
一神教の教義からは、それは出てくるはずの無いものだ。
われらの神こそ唯一絶対の神ならば、
それ以外の異教徒の世界の事情に関しては
何を表現しようと構わないとなる。

しかし、そこにこそ問題の本質がある。
この世界には自分たちしかいないと考えるのか、
多様な世界が広がっていて、ちがう価値観をもつ、
ちがう人々が生きているのだと観るのか。

今回の事件などをみるまでもなく、後者のような姿が、
この現実の真実の姿だ。東洋的な思想では、
それが自然である。

一神教に馴染む人たちに問いたい。
なぜそのような複数の世界を、神は作ったのだろうか。
その意味は何なのだろうか。


(2015年2月16日 SNSサイトの日記記事より)

倦怠、そして気晴らし

パスカルをふたたび読んでいる。
パスカルがしつこく追求したのは、人生の倦怠と気晴らしだ。
この問題はとても根が深く、ある意味で永遠の課題である。
自分も若いころから、関心のあったのはこの点だ。
いやこの問題にずっと苦しんだと言っていいだろう。

この背景にあるものは、自我という存在を中心に
世界を考える世界観にある。
我を中心に据えると、人生の倦怠というところまで行き着く。

何ものにも規制を受けない自由な存在である自分を
世界の中心に置くことから、この問題は派生してくる。
神ならば孤独を感じることはないのかもしれない。
しかし人間の場合は、孤独である。

またそこに価値観が確立できない。
人間同士のルールを決めるという意味での道徳は生まれるのだろうが、
共通の価値観、守るべき何ものかという部分が欠落する。
それを構築するという動機が生まれない。

争いはあるが、勝者は自我の存続を勝ち得ただけで、
それ以外の価値、ある意味で何もプラスも得ない。
敗者同様に勝者も、むなしいことになる。

パスカルは人生は悲惨という。
やがて死をもって終結する人生は救いがないという。
そのことをうすうすと感じ、人生の倦怠を味わいながら、
気晴らしというものに虜になる。

つまりは生きる意味づけというもののない人生は、
退屈にならざるを得ず、向かう先はせいぜい気晴らしなのだ。
気晴らしをしては、夜に目覚め、
また新たしい気晴らしを見つけては、それに倦む。
 
たいていの人間はそんな実態に気がつかず、
あるいは気が付こうとしない。
だが気づいてしまった人間は悲惨さを知る。

パンセの前半部分で、パスカルが描き出そうとしたものは、
そういう姿への考察だったのだろう。

2045年問題

最近の頭をよぎるテーマとしては、キリスト教、脳というコンピュータ、生命現象などで、関連する書籍を読み散らしている。いずれも核の部分がどこか共通項があって、それをなんと言ったらいいのだろう。人間が出現した根源のところへの問いとでも言おうか。とはいってもそんなに深刻に考えているわけではない。しかしついつい、その辺の問題に関心が向く。

 

つい先日まで、2045年問題に関わる本を読んでいて、ついに読むのを放り出した。本当のことを言うと、バカバカしくなったというのが正直なところで、2045年問題などやって来そうもないじゃないかと気がついた。カーツワイルという科学者が、コンピュータの進歩がこのまま推移すると、ついには特異点を迎えて、人工知能が目覚め、人間を支配するようになるという未来予測を立てたわけなのだが。

 

確かにコンピュータのチップの集積度は、直線的に進歩している(リニア)のではなく、指数関数的に進歩しているというトレンドによく乗る(べき法則)。構成するトランジスタの体積も、リニア的ではなくべき法則的に小さくなるのだが、いずれ原子数個からなるトランジスタを考えなければならなくなる(それを開発するということだ)。量子の世界に突入する。その先は素粒子トランジスタなのか?さらに超ひもトランジスタを作ることになるのか?

 

そんなことは到来しそうもない。物理学ですら完全には解明できていない超ひも理論を応用した素子の実用化など考えにくい。あるいは、そんな科学技術が進歩するもっと前の時代に、人工知能の知性は全人類の知性を超えてしまう特異点を迎えるとでも言うのだろうか。2045年問題と言っていることは、つまるところトレンドを示す線を未来に外挿してみただけの話じゃないかと思い始めたわけだ。物理的限界や不可能性に突き当たる前に、トレンドラインは飽和していくだけのことではないのか・・・そんな思いにとらわれる。

 

コンピュータが進歩していき、パフォーマンスが劇的に向上すると、ある日理由も分からず、人工知能の自意識が目ざめて自ら思考するようになる、というふうに考えているようすなのだが、そんな素朴に意識が目覚めるのだろうか。意識があるとは、どのような条件をクリアして、検証出来るのだろうか。脳の機能すら解明できていない現在、それを模したコンピュータが、ある日自律的に思考を始めるとは、楽観的過ぎやしないだろうか。

『13F』

東京で単身赴任生活をしていた頃は、レンタルDVDでずいぶん映画を観た。
お気に入りの映画は、「ショーシャンクの空に」、「赤毛のアン」、
「アイ ロボット」などがあるけれど、
いろいろと考えさせられたのは「13F」という映画。


SF映画に分類される映画だろうけれど、特殊なコンピュータシミュレーションを
研究している会社が舞台で、会社が13Fにあるために
こんな題になったようだ(ずいぶんとぶっきら棒な題名のつけ方だ)。


シミュレーション技術が進んだ先に、生まれてくる問いがベースに
なるように思える。巨大コンピュータの性能が向上すると、
いずれこのリアルな世界のシミュレーションをするようになってくる(たぶん)。


じっさい現在でも、スーパーコンピュータで、大気現象を
シミュレーションしている。その計算結果をすこし見たことがあるけれど、
台湾沖から熱帯低気圧が成長して台風になり、日本列島をかすめて
北上するさまが出ていた。
もちろん左巻きのクモがくるくると回りながら、やがて勢力を弱め、消滅する。


アメリカの軍の研究では、砲弾が戦車に当たる瞬間に、
砲弾はどのような変形をしてつぶれていくかを計算していた。
実弾で確認した変形そっくりの形が計算されていた。


ところで人間を含む日常生活のシミュレーションするには、
その登場人物の考え方やクセや、悩みなどもすべてひっくるめて
シミュレーションすることになる。
その人物が取る行動がまた、その世界を変えるわけだから、
もろもろすべてのシミュレーションだ。


ある意味で人間と同等の仮想人間が、その世界で生きているということになる。
そんな世界を、コンピュータ内に作り上げて研究しているのが、
映画の舞台となった会社なのだ。


じつは人間の意識をコンピュータと結合して、仮想世界に滑り込ませる装置が、
開発中という設定で、ある事情からこの仮想世界に人間が入り込む・・・
するとそこに展開されている世界は、リアルな世界と区別がつかない・・・
そして、いろいろな事件がおきる。


ふと思うのは、リアルな世界と仮想の世界の境界は、ほんとうに、
しっかりと分離されているのだろうか?
計算された世界と、リアルと思っている世界は、いったい何が違うのだろうか?
それを判別できるのだろうか?
というやや哲学的な問いである。


むかしカントの純粋理性批判を勉強したときに、人間はどのようにして
ものを認識するのかという悩ましい問題に付き合ったのだけれど、
どこか似ている。


リアルな世界とシミュレーションの世界は区別がつかない、
と考えるのが妥当な気がしている。

やっとギャラリーサイトが完成

信州の風光に触れて描き始めた水彩画や鉛筆画のいくつかを
ギャラリー形式で展示するサイトが、完成しました。
計画してからずいぶんと時間がかかりました。


●Hideaki Yamagishi Works:
http://gallery.eclatcolors.com/index.html


全体的にすっきりシンプルにした一方で、
jQueryの動的な表現を使ってみました。
今後、さらに充実させていきたいともくろんでいます。



鉛筆スケッチ 丸塚公園

胡蝶蘭が咲くようになりました

花つきの胡蝶蘭の鉢は、いまやお祝いの花の定番です。
自分もこれまで折にふれて、いろいろといただいてきたのです。
しかし2年目の花はおろか、苗すらだめにしてしまうばかりでした。


大反省をして、栽培の勉強をしました。
その結果、ようやくこの冬から花を咲かせるところまで、
すこし上達した感じです。それは、わずかなコツだったのですが、
ここでまとめておきたいと思います。


(1)低温では枯れてしまいます。
   冬に気温が10度を下回ると苗はダメになります。
   こちら信州では、たいてい戸外に置き忘れていて
   ダメにしてしまいます。


(2)かといって、暖めようと直射日光をガンガン当てると、
   葉が焼けてしまいます。葉が黄色くなってしおれた感じになります。


(3)けっきょく、春から夏は、暖かい戸外で木陰のような
   風通しのよい環境で、水たっぷりに過ごさせてやり、
   体力をつけてやります。
   肥料は、固形肥料を、根から離して置く程度です。
   葉がつやつやとテカッてきて、しっかり厚みが出ている状態がベストです。
   大体4枚葉です。


(4)秋から冬にかけて、気温が18度を下回るようになったら
   部屋に取り入れて、明るい窓辺などにおいてあげます。
   でも直射日光が当たると葉が焼けるので、
   レースのカーテン越しのような環境です。水はやや少なめです。


(5)体力のついた苗が、18度以下の環境に2週間ほどさらされると、
   花茎が根元から伸びてきます。赤色で上に向くので根とは区別がつきます。


花茎が出始めたところ。


(6)花茎は冬の間どんどん伸びてきます。
   日差しの方向を向く性質があり、鉢を回して形のよい方向に誘導します。


花茎は日差しに向かって伸びてます。


(7)室内の湿度が低すぎると、つぼみが黄変して落ちてしまうようです。
   自分は気がついたときに、霧吹きで葉や根を湿らせています。


つぼみが充実してきました。開花が楽しみです。


(8)こちらの信州では、2月から3月につぼみが充実してふくらみ、
   花茎の根元側から、順次開花します。

これは別の苗ですが、順次開花しているところです。
しだいに日差しの方向を向いてしまうので、
花茎はねじれています。きっと栽培農家の方は、
光の方向をうまく制御しているのでしょう。