たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

無宗教な日本人?

ネットでズッとお付き合いいただいているkyouさんの「徒然日記」BLOG。
ひとたびkyouさんが関心を抱くや、どんな分野の書籍であろうとバリバリと読破し要約や批評をまとめてしまう。その好奇心と読破力は敬服するばかり、自分も見習わなくてはいけないと思う。推理小説と日本の絵画に造詣が深いのだが、ときどきサイエンスっぽい書物も読まれているみたいで、以前リサ・ランドールの大著『ワープする宇宙−5次元の謎を解く−』の書評を書かれていたのには舌を巻いた。


さて先日、橋爪大三郎著『世界がわかる宗教社会学入門』(筑摩書房)という本を取り上げられていて、この本は自分は未読で突っ込んだ内容は言えない。が、始めのご紹介に、こんな言葉が引用されている。この言葉が妙に心に響いた。

‥‥日本人は、宗教を、知性と結びつけて理解することができなかった。
これは文明国としては、めずらしい現象かもしれない。
p.10〜11

西洋人は、知性の尽きるところから信仰へジャンプするというパターンが多いのだと思う。明白な前提から出発して複雑な世界を理解するという姿勢が貫かれている。たぶんこれはギリシャ時代の論理学などから由来する基本的精神なのではないかと思う。なので、キリストの復活という不可解な現実に対して、知性は頭を垂れてしまう。合理的な精神で一貫していたにもかかわらず、復活というもっとも信じがたい事象によりすべてが転覆するのだ。キルケゴールの著作も、結局は知性を離れ信仰の側にジャンプすることを繰り返し述べている。ドストエフスキーの『罪と罰』のテーマもこの構図の中にこそ存在している。ニーチェなどはキリストの全否定の方に飛躍した。


日本人でこのような知性と信仰の相克に陥った経験者は、おそらく稀であろうと思う。しかし無宗教というのとは異なると考えている。東洋人を含め日本人は、はじめから神の方に安らっているのだ。そこが大きく異なる。西洋的な考え方は個と個とのぶつかりあいや討論の中から論理が組み立てられる。たとえ神とても個と対立している存在として捉えられる。ヨブ記にもあるとおり、すべての創造主である神と人間とは討議したり試したり屈服させたりする対峙関係が前提にある。日本人にはこんなことは考えも及ばない。日本人は神の中に、はじめから包含されてしまっている。自覚がなければ神の中にいるのだということすら思い浮かばない。無宗教だと自ら思っている。


したがって日本人の宗教体験は、西洋のような神との和解というのではなく、「気がつけばはじめから神の中にいた」ということの自覚という形をとる。その自覚に至っていないことが、迷いであり罪なのだ。西洋と異なり人格神という形態をとることが稀なのも、その構造ゆえだと思われる。つまり神とは人格を有する個として存在するのではなく、自分を包み込んでいるすべての存在を成り立たせるおおもとの存在とされる。ほとんど宇宙と呼んでいいものだと思われる。山川草木悉有仏性(山も川も草木もすべて仏性を有している)という言葉の通りである。


空気の中にいる動物は空気に気がつかない。おそらく水の中にいる魚は水の中にいると気づかない。太陽の下で生きているものは光というものに気づかない。それらはすべて自分たちを支えているのにそれを知らない。日本人はきわめて宗教的な安心の中にいるのにそれに気づかない。かえって無宗教だと思っている。しかしおのれを支える存在に気づいた人が、はじめてお蔭様という意味を自覚する。


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