色について
昨秋発行された「いきいき水彩画10」で水彩の色使いについて小文を書いたのだが、友人のBLOG2007-05-22 - 徒然日記でこの色使いのことについて触れられている。友だちのさらに友だちの方がコメントを寄せていて、そのやり取りの中で「汚い色」を積極的に使うという表現が出ていて、このあたりはとても面白いなと思う。
ところで、仏教の教えの中に、本来モノに美醜はないという考え方がある。美醜をつけているのは見ているこちら側の眼の中、頭の中にある勝手な観念であって、モノにはそんな美醜の価値観がはり付いているわけではないのだという考え方だ。
普通の意味で口にするきれいな色というのは、原色に近い色のことだと思う。原色に他の色を混ぜていくと、「濁り」が入って複雑な発色になっていく。色彩の用語で言えば、彩度が「落ちて」しまうのだ。この「」内の言葉が象徴するように、複雑な色あいは、不純となり価値の落ちたものとしてボクたちは捉えるのが通念だ。これは、こちら側の眼の中、頭の中にある勝手な観念ではないのか。
でも大丈夫。
自然の美しさをよくよく見ていくと、原色なんかこの世にはほとんどないものだと気づく。たとえば新緑の美しさ。新緑の輝きに心が揺さぶられる季節になったけれど、この色は原色では表現できない。それは実際に絵画に表現しようとすると、かなり苦労するわけである。
竹の新緑は、相当朱色が入っているし、ケヤキは黄色が強い。それらがともに輝いていることが美しいし、それが山にそれぞれ配置されて色彩の幅が広がっている。そのことがまた複雑な美しさを醸し出す。では影の部分はどうか。ここもそれぞれ複雑な色あいが住んでいて一筋縄ではいかない。
頭で考えては自然の色彩の多様性を捉えることは出来ないだろう。事情は単純なことなのだ。絵の具は基本色を準備しているに過ぎない。混合するための基本素材であるに過ぎない。目的はその絵の具の色を塗ることではなく、より多様な世界の感動を表現することなのだ。
色が失敗したというとき、原色から遠ざかってしまったという意味であるならば、それはむしろ逆ではないだろうか。原色をそのまま絵画に使ってしまいましたね、という失敗だってある。こちら側にある固定観念、美醜の価値観を知らず知らずに対象に押し付けていると、こんな失敗に陥るのではないだろうか。