たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

一枚の落ち葉

アメリカにおいて初めての禅院をひらき、
禅の普及に努めた鈴木俊隆という老師がおられた。

老師の法話は、書籍で知ったが、
落ち葉の話がとりわけ自分のこころにつよく響き、
そのたとえを忘れることができない。

「君たちが1枚の落ち葉を見たら、
ああ、秋が来た!というだろう。
1枚の葉はただの1枚の葉ではない。
それは全体の秋を意味する。」

物理的に見れば、あるいは物質だけを見れば、
目の前に1枚の枯葉がそこに落ちている。
それだけのことだ。

しかし、これはかつて樹木の枝の先にあった。
それが落ちて道端に吹き寄せられていたかもしれない。

枯れ葉は、元の樹木を思い起こさせるだけでなく、
秋の訪れとともに、木から切り離されて落ちた。
秋という季節がやってきたことを告げる役割も担っている。

画家は1枚の枯葉の緑と赤の色彩の微妙さに、
感動するかもしれない。
絵筆をとって絵を描くかもしれない。

落ち葉を集めて落ち葉焚きをする人もいることだろう。
あるいは堆肥にしようとかき集めて持ち帰る人も
いるかもしれない。

1枚の枯れ葉は、それ単独で見ればただの枯れた葉に
過ぎない存在だが、それは秋という季節の運行と
つながりがあり、またさまざまな人の行為につながり、
人生にも関わっていく。

たった1枚の葉でさえ、この世界とのつながりと
無縁ではいられない。複雑に精妙に関わりあっていて、
1枚の葉から世の中や世界とのもろもろの縁が見えてくる。

この世の中の成り立ちは、すべてこのようになっていることを、
枯葉の話からボクは瞬時に覚った。
人間の存在は、もっともっと複雑に多くの人と絡み合い、
孤独などということは、ありえないと分かった。
一人ぼっちなどということ自体がありえないことだと。

人生の意味に悩むなどということが、
なんと愚かな思いだろうと分かる。
すでに人生の場を与えられて、
その意味があるのでしょうか、などと考えることが、
どれだけ見当違いのピンボケの考え方であることか。

この世の成り立ちから、自分は生み出されてきた。
そのためにどれだけの縁が絡み合っていることだろう。
ありがたいと思う以外に無いのではないだろうか。

 

(2015年1月1日 SNSサイト日記の記事より)