たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

倦怠、そして気晴らし

パスカルをふたたび読んでいる。
パスカルがしつこく追求したのは、人生の倦怠と気晴らしだ。
この問題はとても根が深く、ある意味で永遠の課題である。
自分も若いころから、関心のあったのはこの点だ。
いやこの問題にずっと苦しんだと言っていいだろう。

この背景にあるものは、自我という存在を中心に
世界を考える世界観にある。
我を中心に据えると、人生の倦怠というところまで行き着く。

何ものにも規制を受けない自由な存在である自分を
世界の中心に置くことから、この問題は派生してくる。
神ならば孤独を感じることはないのかもしれない。
しかし人間の場合は、孤独である。

またそこに価値観が確立できない。
人間同士のルールを決めるという意味での道徳は生まれるのだろうが、
共通の価値観、守るべき何ものかという部分が欠落する。
それを構築するという動機が生まれない。

争いはあるが、勝者は自我の存続を勝ち得ただけで、
それ以外の価値、ある意味で何もプラスも得ない。
敗者同様に勝者も、むなしいことになる。

パスカルは人生は悲惨という。
やがて死をもって終結する人生は救いがないという。
そのことをうすうすと感じ、人生の倦怠を味わいながら、
気晴らしというものに虜になる。

つまりは生きる意味づけというもののない人生は、
退屈にならざるを得ず、向かう先はせいぜい気晴らしなのだ。
気晴らしをしては、夜に目覚め、
また新たしい気晴らしを見つけては、それに倦む。
 
たいていの人間はそんな実態に気がつかず、
あるいは気が付こうとしない。
だが気づいてしまった人間は悲惨さを知る。

パンセの前半部分で、パスカルが描き出そうとしたものは、
そういう姿への考察だったのだろう。