たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

好きな話

達磨安心(あんじん)という話が若い頃から好きでした。
たぶんその理由は、不安なこころを巡る問答であるためだろうと思います。
臨済禅の公案のひとつで、修行僧に与えられる課題になっています。


その話の概要は、以下の通りです。
(といってもこの概要以上の内容は伝っていないのです)
達磨禅師が仏教を伝えるためにインドから中国に入り、
時の皇帝に面会したところ、まったくその器でもなく、
機運もないと中国の田舎に引っ込んでしまいます。


その田舎の洞窟で、壁に向かってひたすら座禅をしていた。
面壁九年とはこのときのことを言ったものです。


そこへ神光という最初の弟子になる人がやってきます。
こころが不安で仕方ないという悩みをかかえています。
達磨に教えを請うのですがまったく相手にされません。
そんな、なまっちょろいことで仏教の教えなど
理解できるものか!と言わんばかりであったらしい。


神光は、片腕の肘を切断し、それを達磨に差出し、
道を求める気持ちにいつわりが無いことを訴えます。


ここから修行が始まるのですが、達磨は問います。
何をそんな苦しんでいるのか、と。
心が不安で仕方ありません。安心したいのです。
と応えます。


達磨の有名な応答が記されています。
それならその不安なこころをワシの前に出してみろ、
そしたら安心させてやろう、
というものです。


そこで神光は不安の正体を捕まえようと、
たぶん何年間も苦労を重ねて追い求めます。
でもその結果は、否定的に終わります。


ついに達磨の前で、ひれ伏すように、
不安なこころがどうしても捕まえられないと
泣かんばかりに訴えます。
(おそらく泣いていただろうと想像します)


あらゆる追求、あらゆる努力、あらゆる修行を重ねても、
解決が遠のき、目処すら立たないとき、
人間の精神は極限まで追い詰められてしまいます。
打ちひしがれて、目の前が真っ暗という経験はありますね。


達磨の教えは、言葉としては、あっけないほど簡単で、
かつ不思議なものでした。
「たったいま、お前のこころを安心させてやった」


この達磨の一撃で、神光は悟り(解決)を得ました。
禅宗の第2祖の慧可となった瞬間です。
これが達磨安心というお話です。



不安で仕方ないこころを捕まえようとして、
さんざん苦労してみたけれど、
やはり捕まえられないジレンマにより神光は切羽詰って、
袋小路に入ってしまうわけです。


「それなのに」不安なこころが去ってくれないし、
心配や苦労が次から次へとやってくる。


これってほんとうに矛盾しています。
捕まえようとしても実体が無いのに、
不安や苦しみだけはやってくる、
そんなのおかしいじゃないかと思いますね。
実体の無いものに苦しめられているということです。
正体が分からない。


しかし、これがわれわれのこころの実態なのだろうと思います。


神光がその苦しい心情を達磨に訴え、
ついに捕まえることはできないと結論付けた瞬間に、
達磨は、いまお前のこころを安心させ終わったと宣言します。


これもヘンな話で、矛盾する話です。
追い詰めら打ちひしがれた神光の
いちばん苦しい状況のこころを、
いま安心させたぞと達磨は言うのです。
この言葉が契機となって、問題が解決したというのですから。


自分は禅坊主ではありませんから、
この話を自分勝手に解釈していますが、
神光はほんとうの自己に目覚めたのだろうと思います。
穢れなく、苦しみも無い、ほんとうの自己です。


このときの神光の言葉は伝えられていませんが、
「なんだ、そうだったのか、安心している自分が
もとからいたではないか。
苦しんでいたのはそういう理由だったのか。」
こんな感じだったろうと想像します。


臨済宗の始祖、臨済の有名な言葉に、
「赤肉団上に無位の真人あり」というのがあります。
何の印も、地位もない、まっさらの自分がいるという
表明だと思っていますが、神光が気がついたもの
この本当の自己なのだろう思います。