たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

たとえば水の中にいて・・・

長年の習慣で、探しているものはまず外にあるものだと、とっさに思います。青い鳥の話しと同じ、自分にとって好いものはまず外にある、と決め付けてしまうのです。反射神経みたいなものです。この習性はいったい何なのか、ずいぶんと長いこと見つめてきたつもりでしたが、厳然として自分の行動や考えの中に根深く住み着いています。


この習慣のおかげで、参考書は限りなく増えていき、そのうえ買ったという行動が、よい参考書を探すという気持ちにいちおうの決着をつけるので、なんだか安心して気持ちがそこで止まってしまいます。その結果、労力を使って買い求めた本が、本棚のお飾りになって終わるということも珍しくありません。本棚の本をたった一冊増やすために、足を棒にして本を探したのか・・・


それに、自分のものにした後は、それがなんだか不完全に感じて(世の中に完全なるものは存在しないといってよいので、たいていそう感じるのですが)、さらによいものがあるのではないかという猜疑心に似た気持ちが湧いてくるわけです。そうして更なる本を探す循環に陥るのです。


これには実はキリがないのだと悟るにはずいぶんと時間を要しました。完全な本や全てを網羅した本は、とてつもなく大きくて高価な書籍になりますが、手にしたとたんこれは持ち運べる代物ではないとわかり、ならばもっとコンパクトで簡潔に記述した本はないかと、新たな旅に出てしまうこともあります。


われながら可笑しいのは、さんざん探して最終的に欲しいと思っていた本が、じつは自分の本棚に眠っていて、それが最初に買った参考書だったりすることです。ぐるぐると回っていて少しも進歩がないわけですが、それに気がつかないうちに多大な時間と労力を費やしていて人生の大切な部分が、こんなことで終わってしまうわけです。探して、探して、それでもやまない人生ということになります。人生の醍醐味はどこにあるのか・・・


したがって青い鳥の話しは、とても身につまされる童話なんですね。
また白隠禅師の坐禅和讃のなかに、このようなおろかな行動が詩のなかの喩えとして出てきます。

・・・
衆生近きを知らずして
遠く求むるはかなさよ
譬へば水の中に居て 
渇を叫ぶがごときなり
・・・
白隠禅師 坐禅和賛より

この詩は仏の真実(人生の真実)を求める場合を想定して、詠われているわけですが、青い鳥症状に見舞われていると気がつくときに、(これも習慣なのですが)必ずこの白隠禅師のこの一節を思い浮かべるのです。水中にいるのに、のどが渇いて仕方ない、口から泡を出しながら、水をくれと叫んでいる姿が、妙にありありと頭に浮かぶのです。