たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

また午堂さんの本を

午堂登紀男さんの新しい本が出た。購入して読んだ。自分の頭を使って生きる、あるいは仕事をすることに資する本ということでつい買ってしまう。示唆に富み面白かった。
午堂登紀雄著「惜しい努力」で終わらせない思考法Amazonサイト)


この中で、「がんばっているという人は、実はがんばっていない」という節があり、深く同意した。

指示された仕事を一生懸命やっていても「がんばっている」と言うことはできます。反面、自分で工夫して新しい仕事を創り出しても、「がんばっている」と言うことができます。
1日8時間働いた人でも「がんばっている」と言えますし、1日15時間働いた人でも「がんばっている」と言えます。
・・・・
「みんな努力している」と言う人たちは、努力の質・量・方向性によって結果が異なること、自分の努力のレベルと他人から見た努力レベルに隔たりがあることがわかっていないのです。」P.167


ふと思い浮かべ、意味を考え直したのは次のことわざだ。

『実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな』

いままで実力者、成功者は「謙虚」という美徳を身にまとって頭が低いのだろうと思っていた。でもちがうかもしれない。本当に、心の底からそう思っているのかもしれない。


みんな(それなりに)努力している。そのことが成功者には見えている。さらに次のことも見えている。真に成功者となるためには、人知れず厳しく辛い努力をどのくらい継続することが必要なのかも。その見えてしまった基準をもとに照らし合わせれば、自分の努力が充分であったと言えるかあやしい、自分はあの人に助けられた、あの一言に救われた、自分はほんとうに幸運だった、成功は自分の努力だけじゃなかった・・・
そんな思いが謙遜の心からではなく、当たり前のこととして浮かぶのだろう、と。