たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

詩的生活か?

決して自分は言葉が結晶化してくるタイプの人間ではないことは自覚している。つまり詩なんぞ書けやしないし、エネルギーを注ぐような覚悟もないのだという思いがすぐにぐるぐる回ってしまう。そのくせ、振り返れば日々詩を読んでいる日常がある。新聞を読む時間より詩を読んでいる時間のほうがまちがいなく長い。


このところ、辻征夫を読み返し、ついで八木幹夫を読み返し、さらに池井昌樹を読み返し、すこし飛んで山崎るり子を読み返し、しまいに四元康祐を読むという日常だ。そしてまた、辻征夫に戻って・・・


辻征夫の詩は、あまりにも昔から読んできたせいか、どうも自分の外にある声という気がしない。だから改めて何かを思うということはなかった。詩を推敲するとき、カードに言葉の断片を書いてそれをあっちにくっ付けこっちにくっ付けして、脚立の上から全体像を眺めて詩を書いていたという辻征夫の姿が、妙に心に残る。あんなすらすらと流れるようになめらかな言葉は、これほど「苦しんで」書いていたのかという思いかもしれない。


八木幹夫の白い家2編は、以前に読んだときとは異なる印象が残って、このぬめぬめしたあるいはざらざらした生の立体を構成するそれぞれの側面を、蟻が順繰りになぞっていくような感じで、より身近に言葉を感じた。それだけ自分が老齢というべき(老齢なのだが)心境に入りつつある事実を示しているかもしれない。


山崎るり子の詩は、対象をぎゅっと絞ってしまったがゆえに、その分深く掘り起こすというタイプの詩なのだろうけれど、まとまりがよくときに深淵をのぞかせるけれど、読者をどこへ導くのだろうという不安がよぎる感じ。


四元康裕のポエジーは独特で(特異で)、日常すれすれのきわどいところで成り立っているという感じ。自分が理系だったので昔出会ったころは、とても面白く感じた。しかしふたたび「ゴールデンアワー」を読んで、いいなと思えたのは「名犬ラッシー」。


池井昌樹の会田綱雄抄をちゃんと読んだ。会田綱雄の鹹湖(かんこ)を再び読みたくなる。