たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

逃げの言葉

サラリーマン時代の大半は、研究開発部署に所属し将来技術と思われる研究テーマを進めていた。机上検討の段階で議論がまきおこり、実験を進める段階でも議論があり、まとめの仕方でもやはり議論が起きた。議論に明け暮れているような状況におかれていた。


討議の主題はさまざまだが、多くはその方針でいいのだろうか、想定モデルが間違っている可能性はないだろうかという、現状への反省や疑問が中心であったと思う。仕事が順調に進んでいれば、そこには認識の相違という問題は生じにくい。うまくいかないからこそ会議を持つのだ。


討議のテーマに沿い誰かが疑問を呈したとき、主に推進側の人間がそんな議論は意味がない、というような反応に出ることがあった。
たとえば、「仮定の下では議論しても仕方ない」。
あるいは、「たら、ればの議論は意味がないので、討議を打ち切らせていただきたい」。
または、「データのない段階で、あれこれ言いたくありません」。


つまり討議している論点を、一番下のレベル(形而下)だとすると、その論点を論じているレベル(形而上)の反論を持ち出すといっていいだろう。論じていること自体に意味を認めないわけである。


この発言が出てしまうと、話はとても混乱してくるうえに論点が遠のくことが多かった。形而下の議論が未解決である上に、その議論の意義に関する形而上の議論が加わる。いやその議論は必要だとかいらないとか、話は形而上の内容が重複してくる。この反論は、もともとの論点から参加者の意識を遠ざける効果がある。それを狙って少しずれた論議を吹っかけているとも言える。


だがこんな切り返しのやり方は、やはり詭弁と言うしかない。始めの疑問点は、いずれ他の人間からも提示されるのがオチだ。いずれ冷静になればその論点に戻ってくる。チーム内では、いじめようとして意味のない疑問など出す人間はいないのである。そして、出発点に戻った時点で、一同時間を空費しただけだったのではないかと気づくのだ。


昨日、自民党が歴史的大敗を喫した。総理の記者会見をTVで見ていたが、ちょっと気になった。
記者の質問に対して、「選挙はやってみなければ判らないので、自民党大敗の予想に対してコメントのしようがない」、「敗北の原因を、ひとことでは言うことはできない」、「ああすればよかったなどの『たら、れば』の議論はいたしません」。(記憶をたよりにしているため、発言に忠実ではない可能性あり)


研究開発の現場で経験してきたスタイルと同じである。形而上レベルへの論点の移行と、その議論は意味なしという切り返し。
しかし、いずれは冷静になり記者の質問へ答える地道な長い作業が続くのだろう。「長年政権の座にいて、ぬるま湯の中にいた部分がある。国民の目線から遠くなっていた」という選挙対策副委員長の発言に、実のある内容を感じた。


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