たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

グレン・グールドの思考

グレン・グールドの連載番組の第2回目を見た。
知る楽・こだわり人物伝・グレン・グールド・鍵盤のエクスタシー(再)NHK教育
2回目は、「コンサートは死んだ」というテーマ。32歳頃にグールドがコンサート活動を完全停止して、2度と舞台に立たなかったその背景を追った内容だった。


その理由については、吉田秀和氏の解説がいちばん心に落ちたように思う。それは音楽の本質にかかわる問題で、コンサートというのは、聴衆に対して大きく誇大し、かつ宣伝することを強いる類のものであることに関わっている。グールドの語った言葉として、ベストに録音されたレコードを越える演奏を、聴衆の前で再現し繰り返すことを強いる。それは意味がないし苦痛である、というような趣旨の言葉と受け取った。


音楽とは、そんな宣伝とは無縁の内的な経験であるというグールドの考えがあったようだ。大勢の聴衆を前にこれでもかと壮大な音と威厳を見せつけるパフォーマンスとは無縁であって、2人か3人の友人の傍らで音楽の至福の時間を共有する、あるいはメッセージを伝える、あるいは音楽体験するという、そんな演奏活動を理想としていた。たとえて言えば、講演会ではなく小さな討論会、街頭演説よりは座談会に近いものだったのだろう。


なぜこのグールドのTV番組が気になったかというと、その主張がよく理解できると同時に、やはり大衆にはこの考えはとうてい受け入れられないということも、またよく理解できるからだ。


音楽だけではない。絵画の世界だって同じ事情はある。名のある受賞を目指し作品を応募しながら、名を知られて世に出るという方法がある。そのためには審査員の基準や傾向、所属団体色の調査研究を通して、受賞しやすいように描くという傾向は生ずるだろう。でもそれを続けるあまり著名にはなっても、自己の表現を失い、絵を描きたいという出発点を見失う危惧は常にある。わからなくなってしまうといったらいいだろうか。


そんな方法はいやだと拒否すれば、たぶん人に知られる可能性は限りなく小さくなる。どんな天才的な作品を残しても、狭い範囲の人々に知られるだけで、時間の推移に埋没してしまう危険がある。グールドはまずコンサートで有名になってから、自分の本来の主張を貫いたからまだ天才ピアニストの称号を得たが、当初からその姿勢を貫いたとしたら、おそらく世に出てはいまい。


にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ
にほんブログ村