たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

手帳の遍歴を通じて

思い出してみれば、社会人になりたての頃、初めて表紙が皮でできた粗末なシステム手帳を入手した。大きさはミニバイブル版くらいの大きさで、綴じ具部分が「クワガタ」の角のような開閉構造となっていて今のシステム手帳の原型ともいえるものだった。ただ表紙は裏打ちもなくただ皮素材を切り落としたような粗末なものだった。(今も手元にあって、当時こころ惹かれた気持ちが蘇るのだが)


ページの差し替え可能という構造にひどく感動した自分は、それ以来、一貫してシステム手帳を利用し続けてきた。そのサイズはバインドするページの増大とともにバイブル版にサイズアップして、さらにA5版に到達して包括可能な情報量は頂点を極めた。
しかし逆にシステム手帳の利点である常に持ち歩いて利用するという点で、きわめて重たい手荷物に成り果てた。そして携帯しなくなる。あれほど熱心にシステム手帳にあらゆる便利な情報を集約した途端に、なんだかそれがとても鬱陶しいものに変わり果てるのだ。


こんどは逆方向にサイズダウンの方向へ運動が始まった。ふたたびバイブル版に戻ったが、今度は収納できる情報量が減ってしまう。すると表紙面積の増大ではなく、手帳の厚さで対応するようになる。最大30mmリングのシステム手帳が銀座イトウ屋には売っていてそれをしばらく使っていた。このようにして、サイズや厚みが増えたりスリムになったり変遷を繰り返した。


このような事態に陥るのは、情報量の問題だけではない。
まず、システム手帳の利用に際して心しなくてはならないのは、常に情報をメンテナンスしなければならないことだ。どんなに収納容量が増してもゴミとなった情報を放置すればいずれ手帳はパンパンになってしまうのだ。(それを自慢げに持ち歩く自己満足を味わうのならば何をかいわんやだが)


それからこれは本質的な矛盾なのだが、情報の統合をすればするほど情報の閲覧性は高まり便利にはなるのだが、雑多なものが内包されることになり的確な分類法という問題、および情報管理という問題が沸き起こってくる。プライベートな情報と仕事関連の情報を区分けして、一緒の手帳にきれいに整理する必要に迫られる。このような努力をゴリゴリ重ねれば、生活全般の場面でこのシステム手帳一冊で間に合うようになり便利となるのだが、この重苦しい手帳を、仕事の場でも持ち歩き、一方家庭内にいても手元に置くという鬱陶しさと危なさがでてくるのだ。


なぜ鬱陶しい上に危険かというと、仕事の場でプライベート情報をいつもおいて置くことになる。もろもろのパスワードなんかを入れて職場のデスクの上に放置しておくのは危険ともいえる。打ち合わせの場でページをめくっているシーンを想像していただきたい。仕事では必要のない重要情報が閲覧できてしまうのは危ないのだ。そこで区分ごとに手帳を複数に分けるという手段に訴えることに帰着する。プライベート手帳と、仕事上で使う手帳、スケジュール手帳を分けることになる。このようにして複数の手帳を、ゴチャゴチャと携帯することになっていく。


努力する限り変遷は続く。しかし収束はしていかない(キッパリ)。ゲーテじゃないけれど、人間努力する限り迷うものだ。
つまりは、手帳に求める要求事項が、初めから矛盾していて同時に満たす答えがないからだ。


結局、これらの沸き起ってくる矛盾にはある程度ジッと我慢して、放置するほかに手段がないように思う。システム手帳を使うたびに繰り返される思い。正直疲れる。