所有と錯覚
所有するとは何だろうとしばしば考える。
当たり前すぎてしまって、その本質がよくわからない。
自分が持っていないからこそ、とてつもなく欲しくなる気持ちが働く。
したがって自分のものと、自分のものでないものとは
間違えることなく峻別できる。
しかし、目の前の書籍でもカバンでもいいのだが、
自分のものだとしているのは、お金を出してそれを買うことで、
自分のものであると約束したから。
所有権という取り決めの世界で移転が起きたから。
自分のものでなくてもよかったし、自分のものでなかったかもしれない。
モノ自体に自分が注入されて、所有物という性質が加わるわけではない。
所有することへの渇望という奴は、満ち足りることはないところがある。
食欲などと違って、満腹感は湧いてこない。
所有するという行為が目的だとすると、
所有した後は満ち足りるのでなく、空白になり振り出しに戻る気がするのだ。
だから止まるところを知らない。
所有することに渇きすら覚えて、多くのものを所有してもなお
ますます渇望していく姿は、なにやら恐ろしい。
満ち足りていく人生とは正反対で痛々しい。
でもそんな道を、ひょっとしてボクたちは歩いている。
地球資源の枯渇、温暖化、CO2排出規制のニュースを聞くたび
恐ろしく痛々しい姿をさらしているのかもしれないと思う。
なぜ自分の所有物に目をむけ、その価値に気づかないのだろう。
いのち、空気、水、風、緑、風景など、ほとんど無償で与えられていながら、
その満足感や感謝に気づくことはまれだ。
豊かさに囲まれているのに、反って渇望している。
ボクたちは、本当にこれからもまだ努力を重ねて、
多くのものを所有して豊かになるべきなのだろうか。
どうなのだろう・・・