たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

『飛べ!フェニックス』

(乱文を少々訂正。半分眠りながら文章は書けないものです)
先日、バスで揺られながら、表題の映画『飛べ!フェニックス』のことを考えていた。この映画は1965年に制作され、その後リメイク版の『フライト・オブ・フェニックス』が2004年に制作された。リメイク版は、迫力ある特殊撮影がふんだんに入っていて、40年もの歳月の撮影技術の進歩を感じる。


どちらも飽きずに繰り返し数回は見たと思う。前作はビデオで、リメイク版はDVDで。
しかしなぜだろうか、味わいというか印象の強さに関しては初作がとても優れていて楽しいのだ。その理由をツラツラとバスの中で考えていたわけ。


そしてひとつの結論。
この映画の面白さの本質は、アドベンチャーではないのだと気づく。娯楽中心の映画ではなく、別のところにその魅力が隠されているという点だ。リメイク版はこの娯楽要素をたくさん取り入れてしまった代償として、本来の隠れた主題(魅力)がボケてしまったようだ。これが印象の違いになっている。


ストーリをここでは詳しく紹介しないけれども、惹き付けられるポイントの一つは、模型飛行機も、人が実際に乗る実機の場合も、実はまったく同じ原理(物理)で飛んでいるという事実の不思議さを巡っているところだろう。(理系マニアックの気のあるボクだけだろうか?)


映画の内容に戻る。
模型飛行機も実機も同じなんだ!と知っているのは、遭難した乗組員や乗客の中では模型飛行機の設計技師の男だけである。遭難機のパイロットですら、模型飛行機なんてオモチャと信じて疑わない。この誤った社会通念が、映画のバックボーンとして流れている。


だから状況はとても絶望的で、ほぼ全員、助かる手段なんてないと思ってしまう。模型屋さんだけが、まじめに脱出できるかその方法を検討している。この意識の違いが対照的に進行していてこの映画の通奏低音となっており隠された面白さだと気づいたのだ。(こう思うのは模型グラーダーキチガイだったボクだからだろうか?)


またまた映画の内容に戻る。
しかし遭難者全員の置かれた状況がいよいよ絶望的になるにつれて、その誤った通念をかなぐり捨てて模型飛行機はオモチャではないのだと信じざるを得なってくる。それは心から信じたのではなかった。他に助かる手段がなかったというのが正直なところだろう。
渇きと食糧不足に苦しみながら、模型飛行機の設計屋の言うままに、元の飛行機の部品をつぎはぎにして、ちっぽけなフェニックス号が完成する。


模型の完成を喜ぶものの、これはオモチャではなく人が乗れて砂漠を脱出できると実感し、全員の気持ちがひとつになるのは、もっと後のことだ。それは、フェニックスの翼の上に全員しがみ付きながら、崖から死のダイブを試みて谷に落下して速度を稼ぎ、蘇るように谷底からみごと急上昇をする瞬間である。これだって飛ぶじゃないか!
まさしくこれが炎に飛び込み自らの身を焼いて蘇るフェニックスそのものという訳だ。


砂漠の盗賊たちが、フェニックス号の飛行をギリギリまで追撃する場面などは、アドベンチャー的な味付けであって、あまり本質的な部分ではないと思う。
本質的に模型飛行機も実機飛行機も同じ原理で飛行していること、設計の際にも機体のサイズの違いによる気体の粘性の考慮をして係数を少し変えるだけのはずだ。空気分子の大きさと飛行機の翼のサイズの間の比は若干異なるから。(しまいにはエンジニア言葉で語ってしまったが、これだってほとんど変化はないと言えるのだけれどね)