たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

メル・ギブソン『パッション(受難)』を見て

肩のこらないアクション映画のDVDでも借りるためレンタルに出かけたが、お目当てのものは見つからず、イエス受難の映画『パッション』を借りてきて、昨晩ひとりで見た。隠す必要はないのだけれど、家族で一緒に見る気にはならなかった。イエスの悲惨な受難を忠実に再現している映画ということで、聖書福音書に描き出された磔までの過酷なシーンの連続が予想されたからだ。


予想通り聖書に忠実に時間が経過していく。回想や追憶場面が挿入され、イエスの説教で語る言葉のひとつひとつが、この現在の受難を予見していて語られたのだと、映像で説明される。あまりにも残酷だという批評もあるかもしれない。描き出される鞭打ちや磔のシーンは、聖書に書かれた簡潔な表現の、具体的な肉付けである。鞭打ちに使われる鞭は、皮ひもに鉄やガラスが括り付けられそれらを束ねたものだ。鞭を振り下ろすたびに皮はめくれ肉が剥ぎ取られて、血潮が飛び散る。そのことを忠実に再現している。


聖書により伝承された事柄が目の前で起きるとすれば、このようになるという脚色なしの再現こそ、この映画の意味と価値が大きく関わると思う。まさにイエスは、あざけり、鞭打ち、殴打、唾棄の連続の中で、最後は十字架に釘付けされて、疲労と渇きと出血によりぼろぼろの肉塊の姿で死ぬ。人間がどれほどの苦痛に耐えうるものかというサタンの問いの前にイエスは言葉ではなく難を受け入れる形で応えた。奇跡により抜け出せる可能性もあったのかもしれないが、それでは教えの意味を失う。普通の人間と同じく、生身の肉体を持つものとしての受難が予言の成就ということだろう。


今回の映画で、とても印象に残ったのは、イエスを取り巻く人物像だ。ゴルゴダの丘へ十字架を担う手伝いをするよう命じられた通りすがりの男。最後を看取りイエスに帰依しそうになるローマ兵。ともに磔にされた盗人の一人。始めは傍観者だった幾人かの人間が、次第にイエスに惹きつけられていく。
弟子たちは、どこに消えてしまったのだろう。ペトロは己を恥じて逃げてしまい、ユダは後悔のあまり荒野で首を吊ってしまう。
最後までわが子を見続ける母マリアとヨハネ。十字架から遺体を引き降ろし両手にイエスを抱くマリアの姿はとても悲痛で目に焼きつくシーンだ。


20歳になるかならないかの頃、聖書に触れて疑問に感じていた最後の言葉。十字架の上で叫ぶ悲痛な言葉がやはり再現されていた。「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ!」(わが神、わが神、なぜお見捨てになったのですか!)最後まで主に身を委ねる決意をしながら、一個の人間としての魂の叫びを挙げたのだろうか。いまだにすっきりと解釈できずこの言葉の意味を思い測ろうとするが、答えは見いだせそうもない。