たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

座右の書というのとはちがうのだが・・・

これこそ座右の書だと決めてかかって、言葉どおりいつも傍らにおくというような書物は、なんだかうそ臭くて本当でない気がする。長年生きてきて本を読むという経験をつんでくれば、自然と好きな本の傾向を自覚することはあるけれど、自分の精神のよりどころなり、自分の全てを言い当てているような座右の書を定義する行為は、いつもどこかで裏切られてきたようにも思う。いや裏切ってきたということだろう。
それくらい人間の気持ちなり精神というものは変転や変遷が激しく、一箇所になんか留まっているものか、という思いもある。生きつづける限り迷うものだとゲーテは言ったそうだが、あるレベルに到達して迷いがなくなり精神が固まってしまうと考えるのは誤りだと思う。


曽野綾子さんの『うつを見つめる言葉』という本を長いこと傍らにおいて、見るともなく見るという実に不誠実な読み方をしている。しかし良きにつけ悪きにつけ凝り固まらない精神のあり方を読み取るのは、渋いところだが快感に感じるところもある。

私はものの考え方は不純がいいと思う。むしろ小さなことでは不純を許す方がいいと思う。人間には、自分を疚しく(やましく)思う部分が必要だ。自分は正しいことしかしてこなかった、と思う人間になったら、周りの者が迷惑する。
『悲しくて明るい場所』より  p.87

人間、大病をしたり投獄された経験がなければ「本物」になれないといった趣旨の言葉があるそうだが、この世の中は自分の思い通りにならない手痛い経験をしたことがないと、人間に翳ができない。翳のない人間は生まれたての正義の人で、とても付き合いにくい。

自分の中に、動物みたいな部分と、優しい気高い部分と、両方が確実にあると思えば、人間は大きく間違えないでいられる。だけど、たいていの人間が、自分はどっちかだと決めてかかるからおかしくなるんだ。
『極北の光』より  p.98

自分を徹頭徹尾、動物的だと考える人はまれであろう。むしろ優しい気高い人間だと考えてしまう方が圧倒的に多いはず。これゆえに人の数ほど正義が生じ、争いが絶えない。人に向かってあなたはこうしなさいとか、こうしてはダメと、ただただ自分を人に押し付けあっている。
自慢するに値する自分があるのだろうけれど、そうであればあるほど控えめにするのが大人というものではないか。そんなときはたいてい恥ずかしいくらい凝り固まっているものなんだ。


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