たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

じつは寒冷化が恐ろしい

(2012年1月26日 BLOG記事より)

この一週間ほど、こちら信州はとても冷えている。天気予報によれば全国的に厳しい寒さが襲っているとのことで、信州だけではないのだろう。

ふと地球の寒冷化が始まったら大変だろうなと想像する。
(ちなみに温暖化ではない。こちらは大変な問題ではないと思う)
作物が育たなくなる。コメ作の北限が、どんどん南下してしまう。他の穀物も同様で、これは地球規模だ。

各国は、食料の自国囲い込みをはじめるので、貧しい国は飢餓で衰退するだろうし、暖かな場所への大移動で国が崩壊してしまう可能性もある。先進国といえども、食料それにエネルギーに関してかなり困窮するはずだ。

地 球の歴史では、氷期という本当に寒い時期が10万年単位で襲ってくる。そして氷期と次の氷期の間に、間氷期という比較的暖かい時期が約1万年ある。現在は 1万年続いた間氷期の最後の際にいると言われている。氷期のはじまりは、100年後かもしれないし、10年後かもしれない。

人類の文明が築かれたのは、たかだか5000年ほどだから、文明が氷期を経験したことはない。食料の維持ができないので、結果的に人類は激減してしまう。赤道に近い比較的暖かな地方で、ほそぼそと原始的な生活を送る人類がいるような図だろうと思う。現在の文明の形態はないだろうと想像する。

グリーンランドという氷の島がある。昔は緑が生い茂る生物の住んでいる島だった。地層からその証拠が出てくる。それが現在のような寒冷化に襲われている。

自分が学生時代は、将来、地球寒冷化が問題だと騒がれていた。根本順吉氏の本などをよく読んだ。それが欧米を中心とした先進国の政治的、経済的意図から、地球の温暖化が大問題であることになってしまった。もちろんCO2排出にまつわる駆け引きがその裏にある。

正直なところ、ボクは温暖化が問題であるとは一度も思わなかった。340ppm(=0.034%)ほどのCO2の濃度が、40年間に40ppm(年に約1ppm)ほど増えようが、地球の平均気温にカタストロフィックな激変が起きるはずがない。増えれば海水に吸収されて炭酸になるだけだ。

植 物が地球上に現れる前は、酸素はなかったし、大気はCO2だらけだったのだ。海洋が出来るとともにCO2は炭酸として吸収された。また植物が吸収して、酸素を放出した。そしてCO2は激減して今の濃度でバ ランスしている。昔の地球は、CO2の温室効果ガスだらけだったので、温暖化を主張する人の言い分に従えば、むかし地球は煮えたぎっていたはずだ。むろん 植物は発生できなかったはずだ。

温度が上昇するからCO2が増えるのであって(海水からの溶存CO2の放出)、CO2が 増えたから温室効果ガスで気温が上がるわけではない。温室効果による気温の上昇を主張するのなら、水蒸気の問題を考慮しなければおかしい。CO2悪玉説では、なぜか水蒸気がないかのような議論がなされる。水蒸気こそいりばん大量に大気中に存在しており、熱の閉じ込め効果も大きい。雲がたくさんで きるか、晴天が多いかにより気温はかなり変化する。

たぶん気温の上昇は、太陽活動の変動による放射線の増減で、雲量の変化が引き起こしていると言われている。太陽活動は、黒点の数に現れるので、地球の気温は黒点の数と、強い相関がある。

昨年、温暖化危機説を唱えていた気候変動に関する政府間パネルIPCC、学者のあつまり)が、温暖化データ捏造をしたことが発覚し、報道された。誠意ある 学者はもともとこの狂騒曲で踊らなかったが、インチキさが暴露されてしまったいま、温暖化説の説得力は失われた。(でもなぜか日本の報道はそれを事実として報道したがらない)

ほんとうは寒冷化が恐ろしい。

週末の雨読記

4月12日(日)
久しぶりの晴天で、板を担いでチャオにでも出かけようかとも思ったが、
買い物のお付き合いやらサボテンの植替えなどがあって、
ほぼ家の周辺でうろうろした。

先日買った日高義樹『中国、敗れたり』を読む。
事実に基づく分析が説得力を増している。
示唆に富む本だ。

中国は海洋国家たり得ない。これまでの歴史を見ても、
海洋の外へ出て覇権を取ったことが無い国である。
基本的に陸地の戦争に明け暮れてきた国で(だから中華とか
陸地の中央の国とか言っている)、基本は陸軍を中心とする国家である。
毛沢東だって陸地の争いしかやっていない。
いま熱心に海軍軍備の増強を試みているが、
実力レベルは先進国にとうてい及ばず一流たり得ない。
海洋国家たり得ないということは、G2などという大国のホラを吹く資格は無い。
中国は、大量資源輸入国で、中東やアフリカから海路をつかって
資源を大量輸入している。
泣き所は海路を自ら単独の力では確保できないことだ。
同盟国のいない中国は、周辺諸国との争いを起こせば、
周辺国から締め上げられ海路が封鎖されてしまう。
マラッカ海峡など中国船は通れなくなるだろう。
そうなればすぐ中国は詰んでしまう。

アジアインフラ投資銀行(AIIB)など、チャンチャラおかしいと感じる。
日本のマスコミは、日米のバス乗り遅れ論を喧伝しているみたいだけれど、
そりゃ逆でしょと思う。
GDP1位のアメリカと3位の日本が参加しなければ、
集まる資金の大半は、中国が出さざるを得ない。
しかしいちばん金がほしいのは中国なのだ。

自分を過信し続ける限り、中国の力による現状変更の動きは止まないだろう。
またアメリカのアジア施策の今後の姿は見えないが、
現状の弱腰オバマ外交が続けば、中国と日本との衝突もありえると
日高さんは分析している。
(つまり誇大妄想の中国と、衰退していくオバマ外交のはざまで・・・)
アメリカ次第だが、日本の核武装もひとつの選択肢であると
日高さんは結論付けている。

4月13日(月)
朝から雨の降りどおし。
絵画教室は悪天候のため中止。
何も予定の無い一日となった。
サボテンの植替えをする。
昨日もとめた『宇宙の事典 オールカラー版』を眺めて過ごす。
宇宙のことなど、生活に何ら影響しないし、どうでもいいと思うのだが、
そう思いながらも星雲や銀河の話に魅了されてしまう自分がいる。
ダークマターの存在について勉強した。

NHKの特集番組で、土星の衛星エンケラドスに生物の生存可能性が
高いという話を聞いた。エンケラドスが水蒸気のジェットを放出しており、
地下に熱水があることがほぼ確実視されているとのこと。
原始地球で生命が誕生した環境に極めて近いものがあるということで、
10年以内には結論が出るだろうとのことだった。

一枚の落ち葉

アメリカにおいて初めての禅院をひらき、
禅の普及に努めた鈴木俊隆という老師がおられた。

老師の法話は、書籍で知ったが、
落ち葉の話がとりわけ自分のこころにつよく響き、
そのたとえを忘れることができない。

「君たちが1枚の落ち葉を見たら、
ああ、秋が来た!というだろう。
1枚の葉はただの1枚の葉ではない。
それは全体の秋を意味する。」

物理的に見れば、あるいは物質だけを見れば、
目の前に1枚の枯葉がそこに落ちている。
それだけのことだ。

しかし、これはかつて樹木の枝の先にあった。
それが落ちて道端に吹き寄せられていたかもしれない。

枯れ葉は、元の樹木を思い起こさせるだけでなく、
秋の訪れとともに、木から切り離されて落ちた。
秋という季節がやってきたことを告げる役割も担っている。

画家は1枚の枯葉の緑と赤の色彩の微妙さに、
感動するかもしれない。
絵筆をとって絵を描くかもしれない。

落ち葉を集めて落ち葉焚きをする人もいることだろう。
あるいは堆肥にしようとかき集めて持ち帰る人も
いるかもしれない。

1枚の枯れ葉は、それ単独で見ればただの枯れた葉に
過ぎない存在だが、それは秋という季節の運行と
つながりがあり、またさまざまな人の行為につながり、
人生にも関わっていく。

たった1枚の葉でさえ、この世界とのつながりと
無縁ではいられない。複雑に精妙に関わりあっていて、
1枚の葉から世の中や世界とのもろもろの縁が見えてくる。

この世の中の成り立ちは、すべてこのようになっていることを、
枯葉の話からボクは瞬時に覚った。
人間の存在は、もっともっと複雑に多くの人と絡み合い、
孤独などということは、ありえないと分かった。
一人ぼっちなどということ自体がありえないことだと。

人生の意味に悩むなどということが、
なんと愚かな思いだろうと分かる。
すでに人生の場を与えられて、
その意味があるのでしょうか、などと考えることが、
どれだけ見当違いのピンボケの考え方であることか。

この世の成り立ちから、自分は生み出されてきた。
そのためにどれだけの縁が絡み合っていることだろう。
ありがたいと思う以外に無いのではないだろうか。

 

(2015年1月1日 SNSサイト日記の記事より)

 

ポジティブ思考について

雨が降っている。
それでも外出しなければならないときは、
憂鬱な気分になる。濡れるのはイヤだし、寒い。
これはこころに生じた実感のそのままだ。

ところが雨が降ることはいいことだ、
なにより水不足にならずにすむとか、
涼しくて過ごしやすいのだとか、意味づけを
マイナスのものからプラスに変えていくのが、
ポジティブ思考というもの。

脳は、認知という働きで、外界のものを意味づけする。
雨が降って、外出がイヤだなと
よくないこととして意味づけしていた雨降りを、
ポジティブ思考では、
その意味付けを逆転させようとする。

でも所詮は、認知脳の行う意味づけの
変換の作業であって、認知脳は
意味から意味へと渡り歩いている。
認知脳は、外界にある対象を意味づけする思考。
その意味づけをいい方向に変えるというのが
ポジティブ思考の方法論だ。

ポジティブ思考の無理なところは、
第一義に感じた受け取り方を、
自分の都合のよい方へ意味づけを変える努力を
自分の脳に強いる点だが、
それはとりあえず、おいて置く。

認知脳のあり方とはちがう脳の思考法があると、
スポーツドクターの辻秀一さんは言う。
そのことを著書『禅脳思考』という本に
書かれているが、自分もそのことをつねづね考える。

認知脳が、対象を定めてそれの意味づけをするという
働きをするのに対して、
禅脳というのは意味づけをする以前の原始の状態へ
戻る思考である。
(思考という言葉は不適切な感じもあるがとりあえず思考と呼んでおく)
いわば自分の元の状態へ戻りながら自分の成り立ちを
理解するという方法論である。
道元禅師が退歩すべしと言われているのも、
この事情を述べていると解釈している。

この禅脳の状態にあるときに、ポジティブ思考のことを見ていくと、
認知した意味づけを、もてあそんでいるかのように見える。

たとえていえば、お金を使ってしまって、
財布に1万円しか残っていないと考える場合(ネガティブ思考)と、
まだ1万円あると考える場合(ポジティブ思考)がある。

禅脳的な見地からすれば、そのどちらの思考も、
1万円というお金に対する意味づけを、いじり回しているだけで、
1万円というお金は多くも少なくもない。ただの1万円というだけなのだ。

禅脳思考は、その自分が行っている意味づけという行為を自覚せよ、
そして意味づけにとらわれない世界を知れと促している。

さらに、自分の行っている意味づけだけでなく、
自分の内面で起きている感情の揺らぎや起伏も
見つめていくようにと促すものだ。
おのれの内面に沸き立った嫉妬心や怒り、悲しみの感情を、
しっかり受け止めるということを促すものだ。
辻秀一さんも著書で言われている。
認知脳で生きている人は、自分の感情に気づくという感性が
劣化していると。

 

2015年1月4日 SNSサイトの日記より

表現の自由

デンマークで連続乱射事件が起き、
警察の応酬で男を射殺したと報じられた。
これはイスラム過激派のテロであるという
推定がなされている。

ねらわれたのはある画家が参加している集会で、
画家はイスラム過激派から指名手配されている人物だった。
指名手配の人物とは、
いずれも預言者ムハンマドを揶揄したり戯画化したり、
イスラム教を貶める表現をした指名手配者たちである。

危惧しているのはこれらの事件の本質として、
宗教戦争が始まっているのではないだろうか。
表現の自由の名のもとに、異教徒の聖者を
どんな風に表現しようと意に介さないという
頑なさを感じてならない。

言うならば、一神教同士の相克、
その争いの際限の無さを見る思いがする。
矛盾という言葉の語源を見るまでも無く、
どんなものでも突き通す矛と、どんなものでも
食い止める盾が争ったら、何がおきるのか。
どちらも、どんな相手でも破れるという「絶対」を含む。
相反する絶対同士が闘う戦場からは本当の結論は出ない。

身の周辺では、西欧流の考え方
(つまりはキリスト教圏の考え方)をベースに
ニュースが報じられ、意味づけされている。
けれども、今報じられているような観点からは、
解決を見ることは無いだろう。
それは何百年という宗教戦争の歴史
(十字軍の戦史)を見れば明らかだ。

表現の自由に関して、それを制約すべきだ
という根拠は、あまり明確なわけではない。
一神教の教義からは、それは出てくるはずの無いものだ。
われらの神こそ唯一絶対の神ならば、
それ以外の異教徒の世界の事情に関しては
何を表現しようと構わないとなる。

しかし、そこにこそ問題の本質がある。
この世界には自分たちしかいないと考えるのか、
多様な世界が広がっていて、ちがう価値観をもつ、
ちがう人々が生きているのだと観るのか。

今回の事件などをみるまでもなく、後者のような姿が、
この現実の真実の姿だ。東洋的な思想では、
それが自然である。

一神教に馴染む人たちに問いたい。
なぜそのような複数の世界を、神は作ったのだろうか。
その意味は何なのだろうか。


(2015年2月16日 SNSサイトの日記記事より)

倦怠、そして気晴らし

パスカルをふたたび読んでいる。
パスカルがしつこく追求したのは、人生の倦怠と気晴らしだ。
この問題はとても根が深く、ある意味で永遠の課題である。
自分も若いころから、関心のあったのはこの点だ。
いやこの問題にずっと苦しんだと言っていいだろう。

この背景にあるものは、自我という存在を中心に
世界を考える世界観にある。
我を中心に据えると、人生の倦怠というところまで行き着く。

何ものにも規制を受けない自由な存在である自分を
世界の中心に置くことから、この問題は派生してくる。
神ならば孤独を感じることはないのかもしれない。
しかし人間の場合は、孤独である。

またそこに価値観が確立できない。
人間同士のルールを決めるという意味での道徳は生まれるのだろうが、
共通の価値観、守るべき何ものかという部分が欠落する。
それを構築するという動機が生まれない。

争いはあるが、勝者は自我の存続を勝ち得ただけで、
それ以外の価値、ある意味で何もプラスも得ない。
敗者同様に勝者も、むなしいことになる。

パスカルは人生は悲惨という。
やがて死をもって終結する人生は救いがないという。
そのことをうすうすと感じ、人生の倦怠を味わいながら、
気晴らしというものに虜になる。

つまりは生きる意味づけというもののない人生は、
退屈にならざるを得ず、向かう先はせいぜい気晴らしなのだ。
気晴らしをしては、夜に目覚め、
また新たしい気晴らしを見つけては、それに倦む。
 
たいていの人間はそんな実態に気がつかず、
あるいは気が付こうとしない。
だが気づいてしまった人間は悲惨さを知る。

パンセの前半部分で、パスカルが描き出そうとしたものは、
そういう姿への考察だったのだろう。

2045年問題

最近の頭をよぎるテーマとしては、キリスト教、脳というコンピュータ、生命現象などで、関連する書籍を読み散らしている。いずれも核の部分がどこか共通項があって、それをなんと言ったらいいのだろう。人間が出現した根源のところへの問いとでも言おうか。とはいってもそんなに深刻に考えているわけではない。しかしついつい、その辺の問題に関心が向く。

 

つい先日まで、2045年問題に関わる本を読んでいて、ついに読むのを放り出した。本当のことを言うと、バカバカしくなったというのが正直なところで、2045年問題などやって来そうもないじゃないかと気がついた。カーツワイルという科学者が、コンピュータの進歩がこのまま推移すると、ついには特異点を迎えて、人工知能が目覚め、人間を支配するようになるという未来予測を立てたわけなのだが。

 

確かにコンピュータのチップの集積度は、直線的に進歩している(リニア)のではなく、指数関数的に進歩しているというトレンドによく乗る(べき法則)。構成するトランジスタの体積も、リニア的ではなくべき法則的に小さくなるのだが、いずれ原子数個からなるトランジスタを考えなければならなくなる(それを開発するということだ)。量子の世界に突入する。その先は素粒子トランジスタなのか?さらに超ひもトランジスタを作ることになるのか?

 

そんなことは到来しそうもない。物理学ですら完全には解明できていない超ひも理論を応用した素子の実用化など考えにくい。あるいは、そんな科学技術が進歩するもっと前の時代に、人工知能の知性は全人類の知性を超えてしまう特異点を迎えるとでも言うのだろうか。2045年問題と言っていることは、つまるところトレンドを示す線を未来に外挿してみただけの話じゃないかと思い始めたわけだ。物理的限界や不可能性に突き当たる前に、トレンドラインは飽和していくだけのことではないのか・・・そんな思いにとらわれる。

 

コンピュータが進歩していき、パフォーマンスが劇的に向上すると、ある日理由も分からず、人工知能の自意識が目ざめて自ら思考するようになる、というふうに考えているようすなのだが、そんな素朴に意識が目覚めるのだろうか。意識があるとは、どのような条件をクリアして、検証出来るのだろうか。脳の機能すら解明できていない現在、それを模したコンピュータが、ある日自律的に思考を始めるとは、楽観的過ぎやしないだろうか。