たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

倦怠、そして気晴らし

パスカルをふたたび読んでいる。
パスカルがしつこく追求したのは、人生の倦怠と気晴らしだ。
この問題はとても根が深く、ある意味で永遠の課題である。
自分も若いころから、関心のあったのはこの点だ。
いやこの問題にずっと苦しんだと言っていいだろう。

この背景にあるものは、自我という存在を中心に
世界を考える世界観にある。
我を中心に据えると、人生の倦怠というところまで行き着く。

何ものにも規制を受けない自由な存在である自分を
世界の中心に置くことから、この問題は派生してくる。
神ならば孤独を感じることはないのかもしれない。
しかし人間の場合は、孤独である。

またそこに価値観が確立できない。
人間同士のルールを決めるという意味での道徳は生まれるのだろうが、
共通の価値観、守るべき何ものかという部分が欠落する。
それを構築するという動機が生まれない。

争いはあるが、勝者は自我の存続を勝ち得ただけで、
それ以外の価値、ある意味で何もプラスも得ない。
敗者同様に勝者も、むなしいことになる。

パスカルは人生は悲惨という。
やがて死をもって終結する人生は救いがないという。
そのことをうすうすと感じ、人生の倦怠を味わいながら、
気晴らしというものに虜になる。

つまりは生きる意味づけというもののない人生は、
退屈にならざるを得ず、向かう先はせいぜい気晴らしなのだ。
気晴らしをしては、夜に目覚め、
また新たしい気晴らしを見つけては、それに倦む。
 
たいていの人間はそんな実態に気がつかず、
あるいは気が付こうとしない。
だが気づいてしまった人間は悲惨さを知る。

パンセの前半部分で、パスカルが描き出そうとしたものは、
そういう姿への考察だったのだろう。

2045年問題

最近の頭をよぎるテーマとしては、キリスト教、脳というコンピュータ、生命現象などで、関連する書籍を読み散らしている。いずれも核の部分がどこか共通項があって、それをなんと言ったらいいのだろう。人間が出現した根源のところへの問いとでも言おうか。とはいってもそんなに深刻に考えているわけではない。しかしついつい、その辺の問題に関心が向く。

 

つい先日まで、2045年問題に関わる本を読んでいて、ついに読むのを放り出した。本当のことを言うと、バカバカしくなったというのが正直なところで、2045年問題などやって来そうもないじゃないかと気がついた。カーツワイルという科学者が、コンピュータの進歩がこのまま推移すると、ついには特異点を迎えて、人工知能が目覚め、人間を支配するようになるという未来予測を立てたわけなのだが。

 

確かにコンピュータのチップの集積度は、直線的に進歩している(リニア)のではなく、指数関数的に進歩しているというトレンドによく乗る(べき法則)。構成するトランジスタの体積も、リニア的ではなくべき法則的に小さくなるのだが、いずれ原子数個からなるトランジスタを考えなければならなくなる(それを開発するということだ)。量子の世界に突入する。その先は素粒子トランジスタなのか?さらに超ひもトランジスタを作ることになるのか?

 

そんなことは到来しそうもない。物理学ですら完全には解明できていない超ひも理論を応用した素子の実用化など考えにくい。あるいは、そんな科学技術が進歩するもっと前の時代に、人工知能の知性は全人類の知性を超えてしまう特異点を迎えるとでも言うのだろうか。2045年問題と言っていることは、つまるところトレンドを示す線を未来に外挿してみただけの話じゃないかと思い始めたわけだ。物理的限界や不可能性に突き当たる前に、トレンドラインは飽和していくだけのことではないのか・・・そんな思いにとらわれる。

 

コンピュータが進歩していき、パフォーマンスが劇的に向上すると、ある日理由も分からず、人工知能の自意識が目ざめて自ら思考するようになる、というふうに考えているようすなのだが、そんな素朴に意識が目覚めるのだろうか。意識があるとは、どのような条件をクリアして、検証出来るのだろうか。脳の機能すら解明できていない現在、それを模したコンピュータが、ある日自律的に思考を始めるとは、楽観的過ぎやしないだろうか。

『13F』

東京で単身赴任生活をしていた頃は、レンタルDVDでずいぶん映画を観た。
お気に入りの映画は、「ショーシャンクの空に」、「赤毛のアン」、
「アイ ロボット」などがあるけれど、
いろいろと考えさせられたのは「13F」という映画。


SF映画に分類される映画だろうけれど、特殊なコンピュータシミュレーションを
研究している会社が舞台で、会社が13Fにあるために
こんな題になったようだ(ずいぶんとぶっきら棒な題名のつけ方だ)。


シミュレーション技術が進んだ先に、生まれてくる問いがベースに
なるように思える。巨大コンピュータの性能が向上すると、
いずれこのリアルな世界のシミュレーションをするようになってくる(たぶん)。


じっさい現在でも、スーパーコンピュータで、大気現象を
シミュレーションしている。その計算結果をすこし見たことがあるけれど、
台湾沖から熱帯低気圧が成長して台風になり、日本列島をかすめて
北上するさまが出ていた。
もちろん左巻きのクモがくるくると回りながら、やがて勢力を弱め、消滅する。


アメリカの軍の研究では、砲弾が戦車に当たる瞬間に、
砲弾はどのような変形をしてつぶれていくかを計算していた。
実弾で確認した変形そっくりの形が計算されていた。


ところで人間を含む日常生活のシミュレーションするには、
その登場人物の考え方やクセや、悩みなどもすべてひっくるめて
シミュレーションすることになる。
その人物が取る行動がまた、その世界を変えるわけだから、
もろもろすべてのシミュレーションだ。


ある意味で人間と同等の仮想人間が、その世界で生きているということになる。
そんな世界を、コンピュータ内に作り上げて研究しているのが、
映画の舞台となった会社なのだ。


じつは人間の意識をコンピュータと結合して、仮想世界に滑り込ませる装置が、
開発中という設定で、ある事情からこの仮想世界に人間が入り込む・・・
するとそこに展開されている世界は、リアルな世界と区別がつかない・・・
そして、いろいろな事件がおきる。


ふと思うのは、リアルな世界と仮想の世界の境界は、ほんとうに、
しっかりと分離されているのだろうか?
計算された世界と、リアルと思っている世界は、いったい何が違うのだろうか?
それを判別できるのだろうか?
というやや哲学的な問いである。


むかしカントの純粋理性批判を勉強したときに、人間はどのようにして
ものを認識するのかという悩ましい問題に付き合ったのだけれど、
どこか似ている。


リアルな世界とシミュレーションの世界は区別がつかない、
と考えるのが妥当な気がしている。

やっとギャラリーサイトが完成

信州の風光に触れて描き始めた水彩画や鉛筆画のいくつかを
ギャラリー形式で展示するサイトが、完成しました。
計画してからずいぶんと時間がかかりました。


●Hideaki Yamagishi Works:
http://gallery.eclatcolors.com/index.html


全体的にすっきりシンプルにした一方で、
jQueryの動的な表現を使ってみました。
今後、さらに充実させていきたいともくろんでいます。



鉛筆スケッチ 丸塚公園

胡蝶蘭が咲くようになりました

花つきの胡蝶蘭の鉢は、いまやお祝いの花の定番です。
自分もこれまで折にふれて、いろいろといただいてきたのです。
しかし2年目の花はおろか、苗すらだめにしてしまうばかりでした。


大反省をして、栽培の勉強をしました。
その結果、ようやくこの冬から花を咲かせるところまで、
すこし上達した感じです。それは、わずかなコツだったのですが、
ここでまとめておきたいと思います。


(1)低温では枯れてしまいます。
   冬に気温が10度を下回ると苗はダメになります。
   こちら信州では、たいてい戸外に置き忘れていて
   ダメにしてしまいます。


(2)かといって、暖めようと直射日光をガンガン当てると、
   葉が焼けてしまいます。葉が黄色くなってしおれた感じになります。


(3)けっきょく、春から夏は、暖かい戸外で木陰のような
   風通しのよい環境で、水たっぷりに過ごさせてやり、
   体力をつけてやります。
   肥料は、固形肥料を、根から離して置く程度です。
   葉がつやつやとテカッてきて、しっかり厚みが出ている状態がベストです。
   大体4枚葉です。


(4)秋から冬にかけて、気温が18度を下回るようになったら
   部屋に取り入れて、明るい窓辺などにおいてあげます。
   でも直射日光が当たると葉が焼けるので、
   レースのカーテン越しのような環境です。水はやや少なめです。


(5)体力のついた苗が、18度以下の環境に2週間ほどさらされると、
   花茎が根元から伸びてきます。赤色で上に向くので根とは区別がつきます。


花茎が出始めたところ。


(6)花茎は冬の間どんどん伸びてきます。
   日差しの方向を向く性質があり、鉢を回して形のよい方向に誘導します。


花茎は日差しに向かって伸びてます。


(7)室内の湿度が低すぎると、つぼみが黄変して落ちてしまうようです。
   自分は気がついたときに、霧吹きで葉や根を湿らせています。


つぼみが充実してきました。開花が楽しみです。


(8)こちらの信州では、2月から3月につぼみが充実してふくらみ、
   花茎の根元側から、順次開花します。

これは別の苗ですが、順次開花しているところです。
しだいに日差しの方向を向いてしまうので、
花茎はねじれています。きっと栽培農家の方は、
光の方向をうまく制御しているのでしょう。

お店のホームページ完成!

ずっと気になりつつ、なかなかできなかった
店舗のホームページ(HP)が、先日の深夜にようやく完成。
最後の方は毎日作業で夜中の2時くらいになって、
寝る間も惜しんでという感じだった。
(それでも、毎日の朝錬スキーと仕事はもちろん休みません!)


じつはこのHPはねらいがある。
個人事業として、画材店を始めて3年が経過した。
先日の15日にやっと経営数字をまとめて、確定申告書類を提出した。
なんと嬉しいことに3年目でようやく黒字化し、
税金を納める羽目になった(という言い方をすると
税務署の方には睨まれてしまうが)。


初年度の店の経営数字を分析すると、
固定費のうちで家賃と光熱費がダントツに多い。
これじゃ、大家さんおよび中部電力に雇われて、
身を粉にして働いているのと変わらないことが分かった。
こんなの割りにあわないのは明白。


そこで家賃と光熱費が安いところを探して、
現在のお店の場所に引越しをした。
その後、固定費は確実に減り、3年目でわずかな
黒字が出るようになった。
(元サラリーマンの自分が、よく頑張ったものだなと
すこしはほめてあげよう・・・)


次なる課題は、売り上げの増だ。
3年間の売り上げは認知度が増すにつれて、
徐々に増えているが、その伸び方はいかにも、
かったるい感じ。
売り上げ増が達成されれば、
人も雇えるかもしれないし、生活も安泰だ。


これからの顧客は若者であることに間違いなく、
ならばお店の特徴を鮮明に出したHPを作って、
さらなる集客をしようと考えた。
ただの物販の画材店ではなく、もっと工房みたいな
手作りや修理などもできる個性的なお店のイメージ。


商用HPはたいていプロに頼んで作成してもらうのが
常だが、そんな余裕があるわけない。
テンプレートを参考にして、掲載する画像を整え、
タグ打ちをして(HTML+CSSってやつです)、
レンタルサーバーも借り、アップロードしながら、
いろいろなバグに悩みぬいた。


で、HPのアドレスは、下記の通り。
画材エクラへようこそ!



「eclatcolors.com」という文字で、ググッてみたら
(業界用語で、Google検索しろの意味です)。
もうトップにHPが出てくるではないか!
すばらしい。\(^▽^)/

好きな話

達磨安心(あんじん)という話が若い頃から好きでした。
たぶんその理由は、不安なこころを巡る問答であるためだろうと思います。
臨済禅の公案のひとつで、修行僧に与えられる課題になっています。


その話の概要は、以下の通りです。
(といってもこの概要以上の内容は伝っていないのです)
達磨禅師が仏教を伝えるためにインドから中国に入り、
時の皇帝に面会したところ、まったくその器でもなく、
機運もないと中国の田舎に引っ込んでしまいます。


その田舎の洞窟で、壁に向かってひたすら座禅をしていた。
面壁九年とはこのときのことを言ったものです。


そこへ神光という最初の弟子になる人がやってきます。
こころが不安で仕方ないという悩みをかかえています。
達磨に教えを請うのですがまったく相手にされません。
そんな、なまっちょろいことで仏教の教えなど
理解できるものか!と言わんばかりであったらしい。


神光は、片腕の肘を切断し、それを達磨に差出し、
道を求める気持ちにいつわりが無いことを訴えます。


ここから修行が始まるのですが、達磨は問います。
何をそんな苦しんでいるのか、と。
心が不安で仕方ありません。安心したいのです。
と応えます。


達磨の有名な応答が記されています。
それならその不安なこころをワシの前に出してみろ、
そしたら安心させてやろう、
というものです。


そこで神光は不安の正体を捕まえようと、
たぶん何年間も苦労を重ねて追い求めます。
でもその結果は、否定的に終わります。


ついに達磨の前で、ひれ伏すように、
不安なこころがどうしても捕まえられないと
泣かんばかりに訴えます。
(おそらく泣いていただろうと想像します)


あらゆる追求、あらゆる努力、あらゆる修行を重ねても、
解決が遠のき、目処すら立たないとき、
人間の精神は極限まで追い詰められてしまいます。
打ちひしがれて、目の前が真っ暗という経験はありますね。


達磨の教えは、言葉としては、あっけないほど簡単で、
かつ不思議なものでした。
「たったいま、お前のこころを安心させてやった」


この達磨の一撃で、神光は悟り(解決)を得ました。
禅宗の第2祖の慧可となった瞬間です。
これが達磨安心というお話です。



不安で仕方ないこころを捕まえようとして、
さんざん苦労してみたけれど、
やはり捕まえられないジレンマにより神光は切羽詰って、
袋小路に入ってしまうわけです。


「それなのに」不安なこころが去ってくれないし、
心配や苦労が次から次へとやってくる。


これってほんとうに矛盾しています。
捕まえようとしても実体が無いのに、
不安や苦しみだけはやってくる、
そんなのおかしいじゃないかと思いますね。
実体の無いものに苦しめられているということです。
正体が分からない。


しかし、これがわれわれのこころの実態なのだろうと思います。


神光がその苦しい心情を達磨に訴え、
ついに捕まえることはできないと結論付けた瞬間に、
達磨は、いまお前のこころを安心させ終わったと宣言します。


これもヘンな話で、矛盾する話です。
追い詰めら打ちひしがれた神光の
いちばん苦しい状況のこころを、
いま安心させたぞと達磨は言うのです。
この言葉が契機となって、問題が解決したというのですから。


自分は禅坊主ではありませんから、
この話を自分勝手に解釈していますが、
神光はほんとうの自己に目覚めたのだろうと思います。
穢れなく、苦しみも無い、ほんとうの自己です。


このときの神光の言葉は伝えられていませんが、
「なんだ、そうだったのか、安心している自分が
もとからいたではないか。
苦しんでいたのはそういう理由だったのか。」
こんな感じだったろうと想像します。


臨済宗の始祖、臨済の有名な言葉に、
「赤肉団上に無位の真人あり」というのがあります。
何の印も、地位もない、まっさらの自分がいるという
表明だと思っていますが、神光が気がついたもの
この本当の自己なのだろう思います。