たぶん絵的なBLOG

画材店の店主がつづる絵画や画材のあれこれ

『13F』

東京で単身赴任生活をしていた頃は、レンタルDVDでずいぶん映画を観た。
お気に入りの映画は、「ショーシャンクの空に」、「赤毛のアン」、
「アイ ロボット」などがあるけれど、
いろいろと考えさせられたのは「13F」という映画。


SF映画に分類される映画だろうけれど、特殊なコンピュータシミュレーションを
研究している会社が舞台で、会社が13Fにあるために
こんな題になったようだ(ずいぶんとぶっきら棒な題名のつけ方だ)。


シミュレーション技術が進んだ先に、生まれてくる問いがベースに
なるように思える。巨大コンピュータの性能が向上すると、
いずれこのリアルな世界のシミュレーションをするようになってくる(たぶん)。


じっさい現在でも、スーパーコンピュータで、大気現象を
シミュレーションしている。その計算結果をすこし見たことがあるけれど、
台湾沖から熱帯低気圧が成長して台風になり、日本列島をかすめて
北上するさまが出ていた。
もちろん左巻きのクモがくるくると回りながら、やがて勢力を弱め、消滅する。


アメリカの軍の研究では、砲弾が戦車に当たる瞬間に、
砲弾はどのような変形をしてつぶれていくかを計算していた。
実弾で確認した変形そっくりの形が計算されていた。


ところで人間を含む日常生活のシミュレーションするには、
その登場人物の考え方やクセや、悩みなどもすべてひっくるめて
シミュレーションすることになる。
その人物が取る行動がまた、その世界を変えるわけだから、
もろもろすべてのシミュレーションだ。


ある意味で人間と同等の仮想人間が、その世界で生きているということになる。
そんな世界を、コンピュータ内に作り上げて研究しているのが、
映画の舞台となった会社なのだ。


じつは人間の意識をコンピュータと結合して、仮想世界に滑り込ませる装置が、
開発中という設定で、ある事情からこの仮想世界に人間が入り込む・・・
するとそこに展開されている世界は、リアルな世界と区別がつかない・・・
そして、いろいろな事件がおきる。


ふと思うのは、リアルな世界と仮想の世界の境界は、ほんとうに、
しっかりと分離されているのだろうか?
計算された世界と、リアルと思っている世界は、いったい何が違うのだろうか?
それを判別できるのだろうか?
というやや哲学的な問いである。


むかしカントの純粋理性批判を勉強したときに、人間はどのようにして
ものを認識するのかという悩ましい問題に付き合ったのだけれど、
どこか似ている。


リアルな世界とシミュレーションの世界は区別がつかない、
と考えるのが妥当な気がしている。

やっとギャラリーサイトが完成

信州の風光に触れて描き始めた水彩画や鉛筆画のいくつかを
ギャラリー形式で展示するサイトが、完成しました。
計画してからずいぶんと時間がかかりました。


●Hideaki Yamagishi Works:
http://gallery.eclatcolors.com/index.html


全体的にすっきりシンプルにした一方で、
jQueryの動的な表現を使ってみました。
今後、さらに充実させていきたいともくろんでいます。



鉛筆スケッチ 丸塚公園

胡蝶蘭が咲くようになりました

花つきの胡蝶蘭の鉢は、いまやお祝いの花の定番です。
自分もこれまで折にふれて、いろいろといただいてきたのです。
しかし2年目の花はおろか、苗すらだめにしてしまうばかりでした。


大反省をして、栽培の勉強をしました。
その結果、ようやくこの冬から花を咲かせるところまで、
すこし上達した感じです。それは、わずかなコツだったのですが、
ここでまとめておきたいと思います。


(1)低温では枯れてしまいます。
   冬に気温が10度を下回ると苗はダメになります。
   こちら信州では、たいてい戸外に置き忘れていて
   ダメにしてしまいます。


(2)かといって、暖めようと直射日光をガンガン当てると、
   葉が焼けてしまいます。葉が黄色くなってしおれた感じになります。


(3)けっきょく、春から夏は、暖かい戸外で木陰のような
   風通しのよい環境で、水たっぷりに過ごさせてやり、
   体力をつけてやります。
   肥料は、固形肥料を、根から離して置く程度です。
   葉がつやつやとテカッてきて、しっかり厚みが出ている状態がベストです。
   大体4枚葉です。


(4)秋から冬にかけて、気温が18度を下回るようになったら
   部屋に取り入れて、明るい窓辺などにおいてあげます。
   でも直射日光が当たると葉が焼けるので、
   レースのカーテン越しのような環境です。水はやや少なめです。


(5)体力のついた苗が、18度以下の環境に2週間ほどさらされると、
   花茎が根元から伸びてきます。赤色で上に向くので根とは区別がつきます。


花茎が出始めたところ。


(6)花茎は冬の間どんどん伸びてきます。
   日差しの方向を向く性質があり、鉢を回して形のよい方向に誘導します。


花茎は日差しに向かって伸びてます。


(7)室内の湿度が低すぎると、つぼみが黄変して落ちてしまうようです。
   自分は気がついたときに、霧吹きで葉や根を湿らせています。


つぼみが充実してきました。開花が楽しみです。


(8)こちらの信州では、2月から3月につぼみが充実してふくらみ、
   花茎の根元側から、順次開花します。

これは別の苗ですが、順次開花しているところです。
しだいに日差しの方向を向いてしまうので、
花茎はねじれています。きっと栽培農家の方は、
光の方向をうまく制御しているのでしょう。

お店のホームページ完成!

ずっと気になりつつ、なかなかできなかった
店舗のホームページ(HP)が、先日の深夜にようやく完成。
最後の方は毎日作業で夜中の2時くらいになって、
寝る間も惜しんでという感じだった。
(それでも、毎日の朝錬スキーと仕事はもちろん休みません!)


じつはこのHPはねらいがある。
個人事業として、画材店を始めて3年が経過した。
先日の15日にやっと経営数字をまとめて、確定申告書類を提出した。
なんと嬉しいことに3年目でようやく黒字化し、
税金を納める羽目になった(という言い方をすると
税務署の方には睨まれてしまうが)。


初年度の店の経営数字を分析すると、
固定費のうちで家賃と光熱費がダントツに多い。
これじゃ、大家さんおよび中部電力に雇われて、
身を粉にして働いているのと変わらないことが分かった。
こんなの割りにあわないのは明白。


そこで家賃と光熱費が安いところを探して、
現在のお店の場所に引越しをした。
その後、固定費は確実に減り、3年目でわずかな
黒字が出るようになった。
(元サラリーマンの自分が、よく頑張ったものだなと
すこしはほめてあげよう・・・)


次なる課題は、売り上げの増だ。
3年間の売り上げは認知度が増すにつれて、
徐々に増えているが、その伸び方はいかにも、
かったるい感じ。
売り上げ増が達成されれば、
人も雇えるかもしれないし、生活も安泰だ。


これからの顧客は若者であることに間違いなく、
ならばお店の特徴を鮮明に出したHPを作って、
さらなる集客をしようと考えた。
ただの物販の画材店ではなく、もっと工房みたいな
手作りや修理などもできる個性的なお店のイメージ。


商用HPはたいていプロに頼んで作成してもらうのが
常だが、そんな余裕があるわけない。
テンプレートを参考にして、掲載する画像を整え、
タグ打ちをして(HTML+CSSってやつです)、
レンタルサーバーも借り、アップロードしながら、
いろいろなバグに悩みぬいた。


で、HPのアドレスは、下記の通り。
画材エクラへようこそ!



「eclatcolors.com」という文字で、ググッてみたら
(業界用語で、Google検索しろの意味です)。
もうトップにHPが出てくるではないか!
すばらしい。\(^▽^)/

好きな話

達磨安心(あんじん)という話が若い頃から好きでした。
たぶんその理由は、不安なこころを巡る問答であるためだろうと思います。
臨済禅の公案のひとつで、修行僧に与えられる課題になっています。


その話の概要は、以下の通りです。
(といってもこの概要以上の内容は伝っていないのです)
達磨禅師が仏教を伝えるためにインドから中国に入り、
時の皇帝に面会したところ、まったくその器でもなく、
機運もないと中国の田舎に引っ込んでしまいます。


その田舎の洞窟で、壁に向かってひたすら座禅をしていた。
面壁九年とはこのときのことを言ったものです。


そこへ神光という最初の弟子になる人がやってきます。
こころが不安で仕方ないという悩みをかかえています。
達磨に教えを請うのですがまったく相手にされません。
そんな、なまっちょろいことで仏教の教えなど
理解できるものか!と言わんばかりであったらしい。


神光は、片腕の肘を切断し、それを達磨に差出し、
道を求める気持ちにいつわりが無いことを訴えます。


ここから修行が始まるのですが、達磨は問います。
何をそんな苦しんでいるのか、と。
心が不安で仕方ありません。安心したいのです。
と応えます。


達磨の有名な応答が記されています。
それならその不安なこころをワシの前に出してみろ、
そしたら安心させてやろう、
というものです。


そこで神光は不安の正体を捕まえようと、
たぶん何年間も苦労を重ねて追い求めます。
でもその結果は、否定的に終わります。


ついに達磨の前で、ひれ伏すように、
不安なこころがどうしても捕まえられないと
泣かんばかりに訴えます。
(おそらく泣いていただろうと想像します)


あらゆる追求、あらゆる努力、あらゆる修行を重ねても、
解決が遠のき、目処すら立たないとき、
人間の精神は極限まで追い詰められてしまいます。
打ちひしがれて、目の前が真っ暗という経験はありますね。


達磨の教えは、言葉としては、あっけないほど簡単で、
かつ不思議なものでした。
「たったいま、お前のこころを安心させてやった」


この達磨の一撃で、神光は悟り(解決)を得ました。
禅宗の第2祖の慧可となった瞬間です。
これが達磨安心というお話です。



不安で仕方ないこころを捕まえようとして、
さんざん苦労してみたけれど、
やはり捕まえられないジレンマにより神光は切羽詰って、
袋小路に入ってしまうわけです。


「それなのに」不安なこころが去ってくれないし、
心配や苦労が次から次へとやってくる。


これってほんとうに矛盾しています。
捕まえようとしても実体が無いのに、
不安や苦しみだけはやってくる、
そんなのおかしいじゃないかと思いますね。
実体の無いものに苦しめられているということです。
正体が分からない。


しかし、これがわれわれのこころの実態なのだろうと思います。


神光がその苦しい心情を達磨に訴え、
ついに捕まえることはできないと結論付けた瞬間に、
達磨は、いまお前のこころを安心させ終わったと宣言します。


これもヘンな話で、矛盾する話です。
追い詰めら打ちひしがれた神光の
いちばん苦しい状況のこころを、
いま安心させたぞと達磨は言うのです。
この言葉が契機となって、問題が解決したというのですから。


自分は禅坊主ではありませんから、
この話を自分勝手に解釈していますが、
神光はほんとうの自己に目覚めたのだろうと思います。
穢れなく、苦しみも無い、ほんとうの自己です。


このときの神光の言葉は伝えられていませんが、
「なんだ、そうだったのか、安心している自分が
もとからいたではないか。
苦しんでいたのはそういう理由だったのか。」
こんな感じだったろうと想像します。


臨済宗の始祖、臨済の有名な言葉に、
「赤肉団上に無位の真人あり」というのがあります。
何の印も、地位もない、まっさらの自分がいるという
表明だと思っていますが、神光が気がついたもの
この本当の自己なのだろう思います。

年末から年始に

昨年11月末に母が亡くなり、新年早々の3日に父が亡くなった。
母は脳梗塞認知症の長患いで、最期の3年間弱は、
意識が戻らないままの状態だった。
父の方は、昨年秋頃に胃がんが見つかった。
治療方針を決める際に、医師はこのまま放置という選択も
ありますとのことだった。
88歳と高齢でもあり、体力がもつのかどうか保証できず、
暗に手術は無理と判断されたようだ。


しかし父の意思で手術を選択。
その後の経過は想定どおり思わしくなく、
縫合部はつながらない状態が続き食べ物は漏れた。
相当痛みを伴いということだ。
結局、術後の衰弱がはげしく歩けなくなり、その後肺結核を引き起こし、
呼吸器不全で最期を迎えた。


つれ合いをなくした直後に、後を追うように、という表現が使われるが、
父の場合、あるいはそうだったかもしれないと思う。
若い頃から遊び放題、やりたい放題で、
母や家族に苦労を掛けっぱなしの父だった。
その償いもあってか、母が寝たきりとなってからは、
実にかいがいしく世話をしてきたと聞いた。
しかし母の葬儀の祭には、立ち上がることも出来ずに、
会葬は欠席。それからたった6週間後のことだった。


虐待とネグレクトの環境から逃げだすように、
すぐ離れて暮らすようになったのが自分。
そして妹の方は、つねに親元を離れず、
その環境の重圧から何十年と精神を病んできた。
でもそんな重圧も終末を迎えた。


この両親の元で生まれ育って、いろいろな出来事があって、
いまは60年余り。この60年余りは何だったのか、
そんな振り返りの思いが頭を巡っている。


これから父の葬儀のため、実家のある神奈川県に
向かう準備に入る。
じつは昨年10月に生まれた初孫の男の子が、
母親(長女)とともにこちらに(駒ヶ根)に滞在している。
安曇野に嫁いでいる次女が合流し、
家族一同での移動が始まる。

[絵画 日常]絵画教室で水彩画を始めた

絵を教えてくれませんかと画材店で頼まれて始まった絵画教室。
2年を少し過ぎた。生徒さんは増え続けて、もう15人ほどになる。
もうちょっと能力的、容量的に限界に近いと感じている。


今年の夏までは一貫して、鉛筆のみのデッサン中心の絵画教室で通してきた。
その理由は、やはりデッサンが基本だという考えがあって、
デッサンが出来ていない絵は、どこか絵が不安な感じがする。
わかっていて破綻しているのならいいのだが、
気が付かないまま、見る人に破綻を感じさせるようでは
いけないと思う。


そのための独特の教え方をしてきて、
いく人かの生徒さんの絵はものすごくしっかりとしてきた。
構図の問題がすこしクリアできてくると、
今度は、明暗(トーン)の扱いや、面で描くことなどが
テーマになるが、なかなかこれもわかってもらうのに苦労する。


そこで、鉛筆画はそこそこにして、水彩画を始めてみるのも
遠回りのようだが理解が早いかもしれないと考えた。
水彩画では線ではかけない。
どうしても面を塗る作業が中心になる。
トーンや、濃淡を見るにはいい練習になる。


例によって、生徒さんの前で、実際に描いてみせる方法で教えている。
思い切って水彩画の場合も、それを実践した。
下書きから彩色の始めの方を生徒さんが見ている前で描く。
その後、仕上げをする。
それを次回の教室で、また題材にするという感じだ。

鉛筆画とちがって仕上げに時間を要するので、まだ枚数はいっていない。

下の2枚ほどのサンプル画。
いずれも駒ヶ根の丸塚公園の風景だ。




稲刈りの始まる直前の頃。
広がる田んぼの風景。
F4 ホワイトワトソン 水貼り





公園の中の丘陵の景色。
F4 ホワイトワトソン 水貼り